2008年11月23日

走るって楽しいのだと初めて知った

家の近くに新しいスポーツジムがオープンした。
今通っているジムに相当不満がたまっていたところだったから、一も二もなく見学&入会。
ビルそのものが新築だけあってきれい。マシンも最新型だし数も揃ってる。プールもぴかぴか。
なにより、温泉付きなのだ。露天風呂まである。サウナもあるしコールドミストもある。
これまで週に一度くらい仕事場の帰りに温泉に寄っていたけれど、これからはジムに通うだけで済む。うーむ、これでジム通いの頻度が高くなりそう。
長らくプール専門だったのだけど、いきなりスタジオのマスターズクラスに半年ほど通って強引に脚力を付け、少し走れるようになったのだ。
これまで少し走ると膝が痛くなっていて、スタジオのマスターズクラスでも最初の1か月くらい痛くて「こりゃだめだ、もうやめよう」と思いつつも続けていたら、3か月ほどすると痛みも消え、普通に走れるようになっていたという次第。
そうなると今まであきらめていた分、走るのが楽しい。まともに走った記憶は高校の頃くらいなので、少し慎重に時速8キロくらいで(まあ、走ってるとは言えないけどね)どれくらい走れるだろうとやってみたら、あっというまに3キロ走れてびっくり。1キロ以上なんて別世界の話だと思ってましたから、私。人生で1キロ以上走ったのは初めてじゃないだろうか。
昨日もラン3キロ&スイム1キロ。
若干膝に痛みがあるのが不安だけど、しばらく楽しめそう。

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2008年11月09日

スケジュール管理進化論

アナログ手帳の良さの話をしたばかりで恐縮ですが、PCのスケジュール管理の話。
この前買った手帳はスケジュール帳ではなくて罫線が引いてあるだけのメモ帳で、紙の手帳は結局これに尽きる。これまでは新潮社の「マイブック」を使っていたんだけど、あれは少しばかり大きくて重い。
常に持つものっていうのはちょっとしたことが気になります。ほんのちょっとの使い勝手で使わなくなったり。
スケジュール管理っていうPCの機能も同じで、最も古く最も難しい課題のような気がする。一般向けのPCが登場した十数年前「これでスケジュール管理の悩みはなくなる」って随分言われたけど、全然なくなってない。私もずいぶんスケジュールソフトに頭を悩まし、モバイル用のノートPCやパームなんかのギア類に投資した。
中でもpalmは相当長い間お世話になってかなり満足していたんだけど、携帯の高機能化やなんやかやで結局姿を消してしまった。クリエを展開したソニーが多機能を盛り込みすぎて携帯には不向きなくらいデカくて重くしたのもパーム離れを進めちゃったのかもしれない。

macに乗り換えてからは、mac標準のicalを使っていた。これはこれでいろいろ問題があるんだけど、ひと手間かけると携帯とシンクロできるのでかなり便利だった。ただ、シンクロするのに数分かかって少々ストレスがあるのと、何より私の携帯は最大300件までしかスケジュール登録できないことが判明。これはないよなあ。「スケジュールがいっぱいです」とエラーメッセージが出たときは何かの間違いじゃないかと思った。よく見ると、過去のスケジュールを一括消去する機能があるんだけど、スケジュール帳というのはこれからの予定だけじゃなくて過去の予定のアーカイブスも大事だと思うんだけど。それとも世の中の人ってそんなに前だけ向いて生きてるの?
だから携帯から過去のスケジュールを消すとmac上からも消えることに。シンクロ良し悪し(涙)。

そういうわけで最近抜本的見直しを迫られ、今更ながらGカレンダーを導入。
Gカレンダーとicalを同期させるのはシェアウェアが必要だったのだけれど、7月の末頃、GoogleがCalDAV対応になって、何も買わなくても同期が可能になったというのを聞いてやってみました。
やってみると設定はものすごく簡単。ical側のアカウント設定を必要なカレンダー分だけ追加してやるだけ。ホントにそれだけ。
で、「Gカレンダーは携帯からアクセスできるはずだから……、これなら今までとほぼ同じように使えるかな」と思ったら、携帯からは参照しかできない!

パソコンのスケジュール管理の最大の問題はここ。PCでスケジュール管理ソフトを使っても、スケジュールというのはいつ追加されるかわからない。バーで飲んでるときに(無粋だけど)仕事の電話がかかってくるかもしれない。そんな時ノートPCいちいち開いていられない。結局パームや携帯を使うか、紙のスケジュール帳を併用することになってしまう。
なのに携帯からは入力できないなんてグーグルのわりにしょっぱいなあ、と思ってたらありました。
ものすごく便利なので有名だと思うんだけど、あんまりまわりでは知られていなかったので紹介しておきます。もちろん、ウィンドウズ使っている人も使えます、当たり前だけど。
「Google Calendar Mobile Gateway」
これを使うと、スケジュールの入力、編集はもちろん、表示もとても見やすいし、カスタマイズも可能です。おまけにGoogleのAuthSub認証を使ってるので、Gメールを携帯で確認するときのようなGoogleのID・パスワードを確認する手間も必要なし。サクサクとアクセスできます。
うーん、感動。

で、現在の私のスケジュール管理は、「Gカレンダー」と「ical」(自宅+仕事場)と「携帯」と「ipod」が本人も気づかない間にシンクロされています。
「とりあえず手元にあるもので確認&メモできて、データを同期させる手間が要らない」という私のスケジュール管理の理想に少し近づいたかな。
posted by 紅灯 at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | win→mac | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月07日

手帳の手ざわり

きのうサントリーの広報の人と飲む機会があり、いろいろ楽しい話を聞いたんですが、そのうちになにやら紙袋を取り出した。
「紅灯さん、いい手帳、買ったんですよ」
言いながら2冊の手帳をカウンターに並べる。
内ポケットにすんなり入りそうないいサイズ。それぞれベージュとモスグリーンの上品な色。
「触ってみて」と促されるままに取り上げてみると、指先に少しばかり引っかかりながらもすらりと滑る気持ちいい感触が残る。思わず「あ、これ」と声が出る。
「でしょ、でしょう」と嬉しそうなサントリーのAさん。
「麻張りなんですよ、これ。今時なかなかないですよ」
うーむ、うらやましい。というか欲しい。だけど東京ならまあこんなのも手にはいるよな、と思いかけて「うん?」と気づく。今日買ってきたということは──。
「そうですよ紅灯さん、並木坂にある老舗の文具店で売ってるんですよ」
並木坂の文具店。創業明治39年、近藤文具店といえば、私の仕事場のすぐ近所ではないか。
「えー、こんなの売ってるの?」
どっちが地元かわかりゃしない。
訊くと、出張に来るたびまとめ買いしていくという。一冊600円。安い。
さっそくきょう私も買いに行きました。地元としては悔しいけど、欲しいんだもん。
明治からそのままのような(わけはない、と思うが)店内は、今時の文具店とは全く違う。和紙の便せん各種が平台で陳列してあったりする。ざっと見渡しても見つからないので、店の方に訊くと「ああ、麻のね。これです」。レジ横にありました。やっぱり人気商品なのかな。
Aさんがきのう2冊買っていったので、のこり3冊くらいしかなかったんですが、「最近値上げしたんだけどね、こっちのは前の値段で売ってたやつだから前の値段でいいよ」と550円で売ってくれました。Aさんごめん。
それにしても、今時自前で手帳を作っている「町の文房具店」って、どれくらいに減ってしまったんだろう。

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2008年11月05日

世界の闇の中から

映画「ノー・カントリー」をみて、原作のコーマック・マッカーシー「血と暴力の国」を読んだ。
「ノー・カントリー」は去年のアカデミー作品賞を受賞した話題作だが、近年のアカデミー作品としては出色というべきだろう。
コーエン兄弟の作品らしい静かな緊張感が全編を覆う映画だけれども、後半がらりと雰囲気が変わるところがあり、ちょっと理解に苦しんで原作を買い求めた。

ストーリーは単純だ。
荒野の真ん中で男が大金と麻薬と死体と死にかけているメキシコ人に遭遇する。
男は金を持って逃げることを決意するが、組織に雇われた「異常な」殺し屋が男を追う。その二人の足取りを実直な老保安官がたどる。
ただ、このストーリー自体に余り意味はない。要は、「この国」に生きると言うこと、現代のアメリカ社会で生きていくと言うことはどういうことなのかをバイオレンスと愛情とにまみれながら描いていく。
映画はビリビリした緊張が息をつくことのできない人生のあがきを感じさせるし、原作の方は徹底して即物的な描写だけをつなげながら詩情というしかない筆致で登場人物たちの人生を描き出す。
映画も素晴らしかったが、原作の素晴らしさはそれ以上だ。全くタイプは違うが、初めてアービングを読んだ時を思い出した。こんな小説があるのかと、今までマッカーシーを読まなかったことを後悔した。
物語の終盤、殺し屋が男の妻を「無意味に」殺そうとする場面を引用してみる。

「カーラ・ジーンは最後にもう一度シュガーを見た。こんなことしなくていいのに。こんなことしなくていいのに。こんなことしなくていいのに。
 シュガーは首を振った。おまえはおれに自分を弱くしろと頼んでいるわけだがそれは絶対にできない。おれの生き方は一つしかない。それは特例を許容しないんだ。コイン投げは特例を認めるかもしれない。ちょっとした便宜を図ってやるために。ほとんどの人はおれのような人間が存在しうるとは信じない。ほとんどの人にとって何が問題かはわかるだろう。自分が存在を認めたがらない者に打ち勝つのは困難だということだ。わかるか?」

そしてまた別の場面。老保安官に、さらに歳を取っている叔父が語りかける。

「だからおれはいつも同じことを考える。なぜみんなこの国にはうんと責任があると思わないんだ?でも思わないんだな。国ってのはただの土地だから何もしないとも言えるがそんな言いぐさにはあんまり意味がない。わしは以前ある男がショットガンで自分のピックアップ・トラックを撃つのを見たことがあるよ。トラックが何かしたと思ったんだろう。この国はあっさり人を殺しちまうがそれでもみんなこの国を愛してるんだ。わしの言ってることがわかるかね?
 わかる気がしますよ。叔父さんはこの国を愛してますか?
 そう言っていいだろうな。しかし言っとくがこのわしは石ころを詰めた箱みたいに無知だから言ってることは真に受けんほうがいいよ。」
会話の「」と読点がまったくない文体が体にしみこんでくる。素晴らしい。

この作品の正確なタイトルは「no country for old man」だ。「老人の住む国にあらず」アメリカ。
きわめて厳しく生きづらい国でうごめく必死の人生がこれでもかと語られるこの物語は、闇の中で微かに、ごく微かに灯る希望の火のようなものを暗喩して終わる。

アメリカという国が、厳しさ生きづらさを世界にまき散らした8年間がやっと終わる。
その先に微かな希望があるのかどうか、少なくとも今は期待を持ってバラク・オバマをみていたい。

posted by 紅灯 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月03日

血液型で見る振り込め詐欺と大統領選

三連休最終日、相変わらずぶつぶつと仕事しつつTVを横目で眺めていると、「アサデス」でちょっと面白い実験をやってました。
「アサデス」っていうのは、九州朝日放送が毎朝放送している若い主婦層がターゲットの情報番組で、九州限定。
血液型がどうこう言っていたので、「またか」とうんざりしてチャンネルを変えようとしたら、なんだか様子がちょっと違う。
最初に道行く人や番組出演者に「血液型性格判断を信じますか?」と問いかけ、そのうち「信じる」と答えた人に質問する。例えば、「O型」と答えた人には「これがO型の特徴!」と題してO型の特徴をいくつか記したボードを見せて「いくつ当たってますか?」と聞く。でも実はこれ、本当は他の(この場合はO型以外の)血液型の特徴とされる項目を集めたもの。
ところがボードを見た人は「あ、当たってる!」と口々に○を付けていく。
この結果、実に100パーセントの人がボードを見て「当たっている」と回答したという次第。
ここまでならなんとなく聞いたことがあるようなテストだけど、さらに番組では、実験に協力した人に「実は嘘でした」とネタばらしをしたあとで、もう一回最初の質問をしたんです。
「それでも血液型性格判断を信じますか?」と。

驚くなかれ、結局実験の前と後でほとんど差は出なかったんですな。「信じる」と答えた人の数はほとんど減らなかったんです。
血液型占いが当たっていないということを身をもって経験したのに(それもかなり恥ずかしい方法で)、それでも信じ続けるというこの心理、大げさに言えば人間の心の闇の一端です。
私の周囲にも「ねえねえ、血液型何?」などと訊いてくる人たちがいて、その度に「頭悪く見えるからやめた方がいいよ」と答え、それでもしつこく「血液型占いは正しい」という人には噛んで含めるように「論理的に」答えていたのですが、その人たちが血液型占いを話題にすることをやめた気配は一向にありません。
それはなぜなのか、よく分かった気がしました。

よく「人は自分の信じたいことしか信じない」と言いますが、必ずしもこれは正しくない。例えば科学者や哲学者は自分の認識を含めて対象を疑うところから研究の第一歩が始まるからです。
しかし「自分が信じたいことしか信じない」人がこの世界において多数を占めているのは間違いないでしょう。いつの世でもそういう人たちが多数を占めるから少数派が迫害を受けるわけです。そうでなければ差別や迫害など起きない。
その「信じること」はもう論理でも何でもない。特定の血液型だからその人の性格を決めつける人は、オバマの政策がどんなに良くても「黒人だから」投票しない人とその構造は何ら変わりがないわけです。

そういう「論理」で動かない人は、「論理」で誤謬を指摘されても動じません。「だから何?」ってやつですね。
まさにこの心理を実地に金儲けに応用したのが振り込め詐欺だと思います。
金融機関の窓口で、行員などから「それは振り込め詐欺ですよ!」と1時間以上も説得されたのに結局金を、それも数百万円という大金を振り込んでしまったという話を最近よく聞きます。
その度に「なんで?」「バカだなあ」という反応が起きますが、その被害者の中では正しいのは自分で、間違っているのは行員(=論理)であり、「自分が信じてしまったもの」に間違いはないんですから矛盾はないわけです。ひょっとしたら、詐欺だと分かった後も後悔していない人もいるかもしれません。「お金は損したけど、本当の息子に何もなくてよかった」とかね。そういう人に「それは違う」と説明して納得して貰う自信は私にはありません。

ようやくブッシュの時代が終わろうとしています。
「ブッシュ後の世界」に淡い希望を抱いている私は、果たしてバラク・オバマがこの「闇」に勝てるのか、少し心配です。

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2008年10月31日

秋の欲求不満リスト

月末までに100枚の原稿を抱えて最近忙しくもおとなしい生活を送っています。
本腰を入れて取りかかったのが2週間前くらいからで、昨日あたりようやくメドがたってきた。
そうすると調子に乗ってすぐに飲みに出たりするのが悪いクセなんだけど。連休のおかげで、月末の〆切が1日延びているので今日明日あさってで校正&推敲もできそうだし。

日がな一日本業&原稿書きに追われていると、要求不満がたまりにたまっていろんなことがしたくなる。試験前の中学生の頃と変わりませんな。
実際この季節は、特にエンタテインメント系の小説は年末のランキングを狙って目玉商品が並ぶので欲求不満もひとしおなのです。
今年のランキングの台風の目になりそうな湊かなえの「告白」も未読だし、東野圭吾のガリレオ長短編2連発も必読だし、西澤保彦の「スナッチ」も気になるし、柴田元幸訳で出たポール・オースターの「幻影の書」はめちゃめちゃ面白そうだし、コーマック・マッカーシーの「ロード」も当然読まにゃならんし、マッカーシーといえば「血と暴力の国」がそもそも今読みかけだし(一昨日は仕事の後深夜のバーのカウンターで読みふけるという暴挙に出た)、文庫落ちまで待っていた有栖川「乱鴉の島」(新書落ちだけど)は積読状態だし、積読といえば柴田元幸の新訳で話題のジャック・ロンドン「火を熾す」も、今頃だけどせっかく取り寄せたソーカルの「知の欺瞞」も、何よりせっかく全集で復刊が始まった広瀬正も全然手を付けないうちに四冊もたまってる(まあこれは一度は読んでるからいいんだけどね)。

早く原稿を仕上げなければ。

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2008年10月19日

風の日には歌を聴け

最近、ELLEGARDENのベスト盤をしつこく聞いている。
ベスト盤と言っても、休止宣言以降にリリースされた事実上の「総決算」アルバムなわけだが、それにしてももう新曲が聴けそうにないのが残念だ。
最近これほどクールで骨太でカッコよくで思いっきりロックなバンドはなかったと思う。ロックってのは技術ではないという使い古された言葉がぴったりくるバンドだったなあ。
もちろん決して技術が低い訳じゃなくむしろ相当に高度だけれど、今時信じられないくらいシンプルで音に飾り気がない。
ゴテゴテにデコレートされたJ-popやらJ-rockやらがひしめく中で、ELLEGARDENの疾走感は尋常じゃなかった。

このベスト盤は未収録曲などは入っていなくて買わなきゃ買わないで全く何の問題もないのだが(このすっきりとした商売気のなさ、割り切りの良さもELLEGARDENらしい)、彼らのより抜きの曲をまとめてこういう形で聞くとたまらないね。全力疾走でフルマラソンを駆け抜けるって感じ。
ほぼ制作順・発表順に収録されているので成長の軌跡もよくわかる。しかし初期の頃からその疾走感はほぼ完成されていたようだ。

この夏、彼らの休止宣言を伝える記事には「メンバーの間にモチベーションの差が生じた」とあったけれど、おそらく真実なんだと思う。あの疾走感、あのグルーブ感はひたすら「ロックが好き」というモチベーションからでしか生まれてこないだろうし、それが失われてしまえばもう飛ぶことはできないだろう。
風の日が来るのを静かに待ちたい。


雨の日には濡れて 晴れた日には乾いて
寒い日には震えてるのは当たり前だろ
次の日には忘れて 風の日には飛ぼうとしてみる
そんなもんさ
         ──ELLEGARDEN「風の日」
ラベル:ELLEGARDEN
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2008年10月14日

いつの間にか秋だった

連休とは関係な商売とはいえ、秋祭りを横目に働くのも気が滅入ります。
んで、帰りに寄ったなじみのお店。

「竹鶴を」と頼んで、ぽんっと置かれたグラスに一口。
甘いのにうまい。ああ、働いて良かった。
だから酒がこんなにうまい・・・

「やっぱうまいねえ、これやねえ」と私。
「そりゃそうやろ」とマスター。
気づくとボトルがカウンターの上に。

「竹鶴35年」。

「え、ええーっ」

「こんなのもあるよ、飲み」と
ショットグラスに注ぐボトルには
「ニッカ シングルカスク モルトウィスキー 1985 bP5」のラベル。

「・・・・・・マスタ、ありがと」
酔いが回ったのか、なんか景色がにじむ。

30分後。
「やっぱうまいねえ、これやねえ」
「さっきから同じこといっとるやん、大丈夫か」
「大丈夫、けどもう帰るちゃん、お勘定」

なあ、一杯800円って、いいと。
ねえ、マスタ。

ありがと。

そんなことされたら泣いて帰らないかんちゃん。



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2008年10月08日

ブルースナイト

不思議なものでブログというものは、意外と書きたいことを書いてなかったりする。
よくこのブログで備忘録代わりに(というかブログというのは備忘録なんだろうな)ライブの感想などを書いているけれど、岡部鉄心バンドのことを今まで一度も書いてなかったことに気づいてしまった。
岡部鉄心さんというのは知る人ぞ知る博多のブルースマンで、ドラえもんの映画「のび太の宇宙小戦争」に出てくるパルチザンの自由同盟盟主のゲンブ氏そっくりのコワモテなんですが(って、誰もわかんない比喩だけどさ)、いったんギター持って唄い始めるともうこんなにサイコーなブルースマンはいないという方であります。
博多弁で語る「ラーメン屋の姉ちゃんの歌」は落涙必至。涙がしたたり落ちたバーカウンターにはもちろんバーボンのショットグラス。

ただ、ブルースライブ自体は珍しくも何ともないのでありますが、すでに10月6日で3回目を数える「岡部鉄心バンドブルースナイト」はなんと街場のバーで開かれているのであります。
ライブハウスではありません。フツーのバーです。それもカウンターオンリーの。

「そんなもん、できるわけないだろう。ボックス席もないならタダの流しのギターとどこが違うねん」と関西弁でつっこんだあなた、正解。
ドアとカウンターの間で鉄心さん、唄います。その横のスペースにドラムセット(おい)。さらに横にベース。簡単に言えばカウンターのお客さんの背後霊状態。
初めてバンド編成になった第2回目の時、私ドラムセットの隣でした。ライブハウス経験長いですが、バスドラの前で酒飲んだの初めてです。
ギターアンプはカウンターの上。アンプの前にはバーボングラス。

もう最高です。トーキングブルースって究極はこういうスタイルに行き着くんじゃないのかな。
トーキングブルースが自らの音楽の理想だと公言するガリレオ・福山雅治君がこれみたら長崎に帰省せずに熊本に来るぞ。
もうこれは必ず絶対に何が何でも続けて行っていただきたいと、これを呼んでいるであろう店のマスターにここで強く主張しておくわけであります。

と、それはおいといて。
このトーキングブルースナイトの第二回目から「ET」という女性ブルースシンガーが前座で登場するようになりました。
身長も手のひらもみんな小柄で、ギターがやたら大きく見える「女の子」です。
でも、ハンチングにちょっと大きめのシャツ姿できっちりブルースです。「天空の城ラピュタ」みたいと言えないこともありませんが。

これがいい。
まずギターがちゃんとしてる。若いブルースマンって、結構奏法なんかいい加減で「まず気合いから」みたいなところがあるんですが、彼女はちゃんとしてる。少なくともきちんと気を配って演奏してる。
唄も同じ。ブルースらしく自分に没入してるところとはちゃんとありつつ、どこか客観的に見ている。客観的になりすぎるとまたこれはブルースじゃなくなるんですが、そのバランスがいい。おそらく意識してるんじゃないけれども、聞いている客としては大変心地よい。
それはオリジナルの曲によく出てる。
何の派手さもないけど、「ブルースってこうだったよなあ」ってこんな子に教えられるのかという思い。
ブルースっていうのは本当は「含羞」を聞かせるものだったということを思い出させてくれる唄です。
特に「ゆっくり廻る」「街」の2曲は素晴らしい。

鉄心さん、彼女はそのうち大化けするんじゃないでしょうか?

彼女のhpは(携帯向けみたいだけど)http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=etinfo
オススメです。
ラベル:ET 岡部鉄心
posted by 紅灯 at 00:22| Comment(0) | TrackBack(1) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月05日

「劇場版」とは言わせない

「容疑者Xの献身」を観てきました。
封切り初日に行くなんてよほど楽しみにしてたのかなどと思われそうですが、たまたま時間が空いたのと、行った回がレイトショーだったので、ドラマの特番の放送時間帯と重なり、空いてるんじゃないかと思ったんです。
甘かった。さすがに立ち見と言うことはありませんが(レイトショーだし)、客席は7割の入り。みんな留守録してるんでしょうね。もうタイムスケジュール通りにテレビを観る習慣なんてほとんどなくなってきたってことでしょう。視聴率なんて意味ないな。

さてその客席。レイトショーにもかかわらず圧倒的に10代後半から20代女子が多い。彼女たちの内訳は、福山ファン6割ドラマファン4割、またはその両方10割といったところでしょうか。
それから30〜40代のおっさん、これは一人客がちらほら。これはミステリファンでしょうな。

さてこの映画、言わずとしれた東野圭吾の直木賞受賞作にして大ベストセラーの映画化です。原作は、丹念に作られたミステリ小説の鏡のような端正な作品で、トリックは細心の注意を払って作ってあります。全編に伏線が張り巡らされ、しかし、お話自身は大変地味といういかにも東野圭吾らしい作品です。
ということはつまり、まったくもって映画化しにくい作品でもあるということです。
こういう映画を観るときのお約束は「期待しちゃいかん」と言い聞かせておくこと。
しかし一方、この映画のベースとなったテレビシリーズは、意外と原作の持ち味をしっかり生かした作りになっていましたので、「期待しちゃいかん」と思いつつも、「ひょっとして面白いかも」などと色気を出しておりました。

以下、結末やトリックに触れている部分があります。未見の方はご注意を。

オープニングはど派手です。ドラマシリーズのノリそのまんま。ですが原作にはありません(当たり前だ)。
「こりゃどうなんだろう」と思いつつ観ていると、いきなり地味になります。
今回の事実上の主役、堤真一演じる石神が住むアパートやその周辺の下町っぽいたたずまいなんて、もう原作のイメージそのままで、良くこんな場所ロケハンしてきたなあと感動したほど。
で、お話はほぼ原作どおり。「いいのか」「大丈夫なのか」とこっちが心配になるほど地味に原作どおりです。
しかし演出は非常に手堅い。時間、場所、人……、ミステリに必要な「伏線」をきっちり押さえています。原作を知らずに初めてこの映画を観た人は、もう一度見直すと「ああ、これか」「ここにも!」ってな感じで楽しめると思いますよ。冒頭の石神の通勤風景の描写にトリックが堂々と写ってたりします。
原作に使われる大技、登場人物の描写によって読者をミスリードする叙述トリックの部分もしっかり取り込んでいるし、とにかく2時間にまとめるための刈り込み方が大変うまい。
さすがに映画としてはあまりに地味なので原作にないシーンも付け加えていますが、これもありきたりながら抑え気味の演出が効果的。
監督の西谷弘という人は「県庁の星」を撮っていますが、基本はテレビの人で、「エンジン」や「ラスト・クリスマス」などを撮ったベテラン。テレビの「ガリレオ」シリーズも手がけていますが、テレビシリーズとはずいぶん趣が違う。最後の方に編集がおかしいと思ったところもあったけど(時間がなかったのか?)、映画とテレビの文法の違いをよく知っている人のように思う。

そしてラスト。
さすがに東野圭吾独特の後味の悪さフルスロットルのあのラストは変えるだろうと思っていたのですが、やりましたね。
CMでも流されている堤真一号泣の意味は・・・。主人公とヒロインが同じ場所で号泣しているのに、それが全くすれ違っているというか、ものすごく広くて深い谷が横たわっています。ミステリ&恋愛ドラマなのに、観客に絶対にカタルシスを与えない終わり方。
あのラストで「ねえねえ、ヒロインは○○のつもりなのに、堤真一は○○なんだよね、そんなのアリ?」などと不安に思った方、たぶんあなたはそれで正しい。
いいのかこれで、という映画ですが、いいんです。
この映画、福山雅治「ガリレオ」を選択せずに、東野圭吾「容疑者Xの献身」を選択したその心意気は見事と褒めておきましょう。
まあ、もともと原作もそうなんですが、そもそも「ガリレオ」というキャラでやる必要のないお話なんですね。ガリレオ役を刑事たちに交換すれば、そのまんま「特捜最前線」とか「七人の刑事」とかで最良のエピソードになりそうな地味で暗い、しかしよくできたお話です。
おかげでミステリ映画としては近年にない上質の映画となりました。
たぶんヒットはしないと思いますが。

映画が終わって出口へ急ぐ女の子たちやカップルたちの表情は一様に芳しくありません。
主人公たちは号泣しているのに客は引くばかりで全然泣けないし(私は主人公の悲惨な心情を思うと泣けてきましたが)、話は(舞台設定は)びんぼー臭いし。
主人公のはずの福山くんは全然活躍しないし(でも相変わらずお洒落。そのお洒落が思い切り浮いてる)。
私の目の前を歩いていた10代後半の思い切りヤンキーなカップルは、剣呑な雰囲気を思いっきりまき散らしながらシネコンを出るまで口を聞くどころか顔を合わせようともしませんでした。あれはこの後「映画を観よう!」と誘った誘わないで間違いなく喧嘩になったと思われます。

最後に役者について少し。
最近妙にインテリの役が多い堤真一は絶好調ですな。JAC(千葉真一が作ったジャパンアクションクラブ)出身だってもう知ってる人も少ないかも。この数年やたら出演作が多いですが、こういう線が太くて幅広い役柄ができる俳優減ったからなあ、貴重なんでしょうな。
福山雅治は、テレビドラマでは割と評価していたんですが、映画は向いていないようです。

あと、益岡徹が相変わらずいい味出しています。

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2008年09月29日

追悼 ポール・ニューマン

亡くなってしまいました。
俳優を引退し、ガンと戦っているというニュースは入っていましたので覚悟はしていましたが、やはり寂しい。以前書いたシドニー・ポラックやロバート・レッドフォード(こちらは存命ですが)らとともに、良きハリウッドを作り上げたビッグネームでした。
若い頃はギラギラとした男臭いイメージだったようですが、うまく歳を重ねてキャリアを積み上げました。
「熱いトタン屋根の猫」→「ハスラー」→「明日に向かって撃て!」→「ロイ・ビーン」→「スティング」→「スクープ・悪意の不在」→「評決」→「ハスラー2」→「ノーバディーズ・フール」と見ていくと、「おお、いい感じで歳をとってるじゃないか」と思いませんか。

作品に恵まれないという言い方もしばしばされる人でしたが、こうやって書き出してみると決してそんなことはない。おそらく、「ニューマンにはもっと代表作があるはずだ」と思わせる何かがこの人にはあるんでしょうね。
アカデミー賞をずっと獲れなかったのも、「うーん、もっといいのが観たい」とアカデミー会員に思わせたのかもしれません。
確かに、男臭い役で人気になったのに、「明日に向かって撃て!」はそれをレッドフォードに譲って、自分はひょうひょうとした食えない男を(でもキャサリン・ロスといちゃつくレッドフォードを陰から見つめる切ない男を)楽しそうに演じていました。
かと思うと「ロイ・ビーン」では豪放磊落な男の中の男、「スクープ」はシニカルなブルーカラー、「評決」は落ちぶれた弁護士が立ち直るまでをしみじみと演じ、でもどれをとっても「ポール・ニューマンである」という印象を残します。といってデニーロのようなすべての役を引き寄せるタイプでもマルコビッチのような憑依型でもないという珍しいタイプの役者でした。
よく言えば底が見えない、悪く言えば手を抜いているように見える、自然体の俳優とでもいうんでしょうか。

私が最も評価しているのは「評決」で、念願のオスカーはこれであげて欲しかったと思いますね、今でも。
ちなみにこの年のアカデミー賞は「ガンジー」「ET」「ミッシング」「トッツィー」そして「評決」が争うという、アカデミー史上特筆すべき激戦の年でした。俳優として「ラッキー」な人生を送ったニューマンは、でもこういう運には恵まれなかった人でした。
でも多くの人がこの映画をニューマンのベストに挙げると思うので、ここは当ブログの追悼記事の慣例として、目立たないけどお勧めの一本を。

それは「スラップ・ショット」(1977)。
連戦連敗のアイスホッケーチームの奮闘ぶりを涙あり笑いありで見せるジョージ・ロイ・ヒルのドタバタ人情ドラマ。ジョージ・ロイ・ヒルはもちろん「明日に向かって撃て!」「スティング」の監督です。しかしこの2作に比べて肩の力が抜けて(抜けきって)、もう本当にリラックスして楽しめる快作に仕上がっています。
チームの監督のニューマンがいいんだなあ。男臭くてバカで、でもナイーブで。
そう言えばポール・ニューマンって、時々見せるバカっぽい表情が本当にバカっぽくていいんです。レッドフォードみたいに「バカやって見せてます」みたいじゃなくて、本当にバカ?と思わせるところが、人なつっこい魅力なんでしょうな。
そういう魅力全開の一作、是非ご覧下さい。


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2008年09月22日

巨匠の夢

他人の夢の話を聞かされることほどつまんないことはないといいますな。
夢と言っても、将来の夢とか15年後の僕への手紙とかじゃなくて、よだれ垂らしながら見る夢の方。
「きのうさ、すっごいヘンな夢見ちゃってさ、全然知らない場所に立ってるんだけどそれが知ってる様な気がして・・・」なんて本人は一生懸命話してるんだけど相手には全然伝わりません。シュールな話を他人に話すのは怪談話より芸が要る。聞いてる方は何が何だかさっぱり分からないというのがせいぜいですな。

夢というのも人それぞれのようで、モノクロの夢を見る人もいるそうですが、私の場合、総天然色はもちろん、匂いも味も普通にあります。それどころか知覚痛覚の類も変わらずあるので、「これって夢かな、キュー」ってほっぺをつねるというのは通用しません。夢の中でしっかり痛いので。
だから、目が覚めた直後は「あ、夢だったのか」で済むのですが、数日経つと、「あれって夢だっけ、現実だっけ」と記憶が混乱することもたまにあります。
なので自分が殺される夢を見たときは、目が覚めた後も1時間くらい立ち直れません。肉体的にも痛みが残ってたりして(まあ、死ぬほどの痛みじゃないんだけど)。

もう一つの私の夢の特徴は、割とストーリーが充実していて、ハリウッド映画のアクションものみたいな展開が少なくありません。ふとしたことから国際謀略に巻き込まれて七転八倒、絶体絶命に追い詰められるも、知人友人の助けを得て反転攻勢、怒濤のクライマックスへ、てな上映時間2時間10分総制作費50億円みたいなの。
こういう夢だと途中で目が覚めても、(あ、続きが観たい)とか思ってもう一度寝ると、大抵はすんなり続きの世界に入っていけます。レンタルビデオを観てて、途中一時停止してビール取りに行ったりするような感覚ね。

とまあ、こういう夢を見ているうちふと思いました。
「一流の映画監督が見る夢って、やっぱり凄いのだろうか?」

だって自分の夢ですからね。構成もセットも思うまま、予算使い放題。現実には無理なカメラワークやCGに頼らなければ不可能な視覚効果でも、夢の中ならいくらでもできます。問題は、その構図や視覚効果、カメラワーク、ストーリーの発想ができるかどうかだけなんですから。一流の映画監督というのはその発想がオリジナルで無尽蔵な訳ですから、すべての現実的な条件が取り払われた夢の世界では、もうものすごい映画が毎晩映画監督の頭の中では上映されているのではなかろうかと思うわけです。でも人の夢は覗けない。でもみたい、スピルバーグの夢を覗いてみたいよお。

とまあ、そういうことは皆さん考えるようで、黒澤明が見た夢を映画化したというふれこみの「夢」なんかがすぐに思い出されますが、どうなんでしょうね。確かにストーリーからは解き放たれていますが、どこかで現実とのバランスを取ろうとして、その結果中途半端になった印象は否めません。むしろ「無駄に金遣ってる」と非難を浴びまくった「乱」の方が黒澤が自分の夢を忠実に映画化したんじゃないかという気もします。

さてさていつものように前置きが長くなりましたが、何の話かというと「ポニョ」を観てきたんです。「崖の谷のポニョ」じゃなくて「崖っぷちのポニョ」でもなくて「崖の上のポニョ」ね。
で、見終えた最初の感想が「これって宮崎駿の夢なんだろうなあ」と。

初期の頃の宮崎作品に比べて遥かにいい加減で緩くてご都合主義な世界観。
妙に歪んだ印象を与える手書きの絵。
全く無意味だけど、ひたすら次のカット次のシーンへ盛り上げていく効果はすばらしい、目先だけを追っているストーリー。
幸せな気分というか、発狂寸前というか、とどのつまり理解不能な色彩設定。

世界観を説明しようとか、ストーリーを破綻なく組み立てようとか、そういう普通の映画作りの努力はハナから放棄されています。これが「子ども向き映画」に設定されたのは、そうした説明努力を放棄しても許されるジャンルだからではないでしょうか。だから同じ作家による「子ども向け映画」といっても「トトロ」とは全く違うジャンルの映画になっている。
宮崎駿の映画作りは、描きたいシーン、描きたい絵を最初に描いて、そこからストーリーを服得たイメージふくらませていくという作法であることはよく知られていますし、そうした創作手法はそれほど珍しくもないですが、今回はもう、ひたすら描きたいモノだけを描き散らしたという印象です。

今回初めて宮崎駿が絵コンテに色を塗って指示をしたといいますが、当然です。あの映画の制作をアニメーションという集団作業の極地でやり通したのは奇跡じゃないかと思いますね。まさに独裁者宮崎駿の面目躍如。基本的に「崖の上のポニョ」というアニメーションは、一人ですべて描く芸術家肌のアニメーション作家が100年くらいかけて作るタイプの作品です。一体どんな映画になるのか、宮崎以外のスタッフは皆目見当が付かなかったのではないかと想像します。
今回鈴木プロデューサーは直前までCMを放送しない、CMを流しても内容には触れないという手法を取って話題を呼びましたが、あれはそうする以外に仕方がなかったのではないでしょうか。

「かわいい」とか「心が温まる」とかこの映画を観て本気でそう思うのか、わたしは不思議でたまりません。
子ども特有の強烈な生のエゴイズムが大量殺戮を引き起こす世界。そこでストーリーと関係なく巻き起こる近親相姦、といって悪ければ近親相克の隠喩暗喩の数々。愛情と憎悪が直截にロコツにぶつかり合う感情過多のエピソードが渦巻く混乱。次々に挿入される過剰なイメージの連続。まさに船酔いする映画。
「ポニョ、ポニョ♪」というあのえげつないほどにかわいらしさを強調したテーマ曲は、「これはヤバイ」と危惧した宮崎アニメの守護霊二人(鈴木・久石)が強引に「ほらこんなにかわいいんだよ、純粋無垢な映画なんだよ」という皮を被せて、世間をだまくらかそうとした策略ではないかと睨んでいます。

夢というのは、わかりやすい悪夢というのは、実は少ないものです。
目が覚めて何となく呆然となりながら、「あれは何だったんだろう」と釈然としないまま忘れていく。楽しかったのか、恐ろしかったのか。その境界が曖昧な世界。

こんな夢を毎晩見て、こんなイメージを体からあふれさせて生き続け、正気を保ち続けている宮崎駿というのは、やはり只者ではありません。
天才宮崎駿を改めて実感させる映画であることは間違いがありません。
前作「ハウル」で予兆はありましたが、ついに暴走を始めた宮崎駿、これからどこへ行くのか気になるところではあります。

教訓
「凡人の夢はつまらないが、巨匠の夢は恐ろしい」


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2008年09月16日

飲んで学んで驚いた休日

若手バーテンダーが腕を競うカクテル・コンテストに行ってきました。って、もちろん見学というか応援。バーテンダーじゃないし、だいたい若くないし。
なんですが、出場する選手に知り合いが複数いるので、一人だけ応援できないというのも辛い、というか八方美人ですな。

今回はスポンサーがアサヒなので、アブソリュートのフレーバーシリーズなどなどアサヒのイチオシのスピリッツを使いながらの戦いが繰り広げられました。
私このコンテスト観て初めて知ったんですが、ホテルのバーテンダーと街中のバーテンダーは流儀が違うんですな。いや、ホテルのバーマンは仕草がロボットみたいとか、髪を七三に分けてるとか、そういう違いは何となく感じてたんですが(おい)、メジャーを使うか使わないかと言うことなんです。
普通のバーテンダーはメジャーカップを使うけど、ホテルのバーテンダーは使わない(人が多い)。コンテストが終わった後に審査委員長のバーテンダーさんが総評で触れてて気づいたんですが、確かに言われてみればホテルのバーマンってメジャーカップ使わない気がするよなあ。
使わない方が所作がいいという訳でもなくて(たぶん)、どちらがいいというのは特にないと思うんですが、こういうコンテストはホテルのバーマンが強いのは一般的な傾向のようです。ネーミングからしてはっきり賞狙いをアピールしてたりするし。

しかし、今回2位3位のホテルのバーテンダーを抑えて優勝したのは、街中バーテンダーでおまけに女性。試技の時からカッコイイなと思っていましたが、あっさり優勝。おまけにアサヒビールの特別賞もダブル受賞。
バーテンダーも本格的に女性の時代の到来、なんて決まり切った言い方してもしょうがありません。何たって今回出場選手の3分の1近くが女性だったんですから。

それにしても、さっきも触れたコンテストの総評が面白かった。
今回のコンテストは一人のバーテンダーがオリジナルカクテルを3杯作るルールなんですが、普通のコンテストは5杯だそうです。3杯にしたのは「その方がより実践的だろう」と言うことだったんですが、総評では「3杯のカクテルを5杯の時と同じようにシェイクする選手が目立った」とお説教。つまり、シェイカーの中に入っている量が違うのだから、当然シェイクを変えないと水っぽくなってしまうということなのです。うーん、確かに。
その他にも、プロならではの細部にこだわった批評が展開されて素人としては感動モノでした。

さてコンテストの後はスポンサーのアサヒ・ニッカウィスキーセミナー。
大昔、ニッカに就活もしたことがあるので(本当)、ニッカの基礎知識はなくはないのですがやっぱりテイスティングが目当てであります。
今回のテイスティングは次の5種類。
1)余市12年ウッディ&ヴァニリック
2)余市12年ピーティ&ソルティ
3)シングルカスク宮城峡12年フルーティ&リッチ
4)シングルカスク宮城峡12年シェリー&スイート
5)シングルカフェグレーン12年

中でも白眉は新樽熟成の1)。個性の強い余市ならではと先生が自信を持って出しただけあって、うまい。「ウッディ」=森の香りなんですが、新樽臭くない。
うーん、市販はしてないみたいなんですが、ああ、呑みたい。もっと飲みたい。
あと、5)は、要するにグレーンなんですが、あの味も素っ気もないグレーンがこうまでうまいかと感じされるものでした。

さて、最後はチャリティカクテルパーティです。
今まで「カクテルパーティ」と名の付くパーティには何度か出たことはありますが、今回は本物。だって、本物のバーテンダーがわんさか集まって、作るのも飲むのもプロばっかという「カクテル」パーティなんですから。
ちなみにコンテストで入賞したカクテルも飲めることになっていたのですが、残念ながら人気がありすぎて僕は飲めませんでした。あっというまに100人くらい並ぶんだもん。だから感想はなし。今度お店に行って飲もう。
酒造会社やアルコールの輸入代理店さんのブースもずらりと並び、各社イチオシの酒が飲みホーダイ。もう天国ですなこりゃ。
中でも、日欧商事(イタリアの食材専門だと思う)のブースにずらりと並ぶグラッパの数々に感涙。素っ気ないデキャンタも何本か並んでるから、何かと聞いたら、「この秋から受注するグラッパ」とのことで、あれもこれもと片っ端から飲んでしまいました。うはは。

そして広い会場がすっかり酒くさい空気にずっぽりと包まれた頃、お約束のプレゼント抽選大会。子どもの頃からくじ運のカケラもない私は無視してひたすら飲んでいたところ、会場一杯に響き渡るのは当選番号のアナウンスではなく、私の名前。
(何か落とし物でもしてしまったのだろうか)と呼ぶ声に応えると、「ベストドレッサー賞の発表」っておい、冗談でしょう?!。
もう一人呼ばれた女性も心底驚いた表情でボー然としています。
着てるモノを人から褒められたなんて生まれて初めての経験で、マイク向けられたって何も話せません。情けないことこの上なし。っていうか、せめて10分前に教えてくれよお。

最後はなんだかよく分かりませんでしたが、楽しかったことは間違いない休日でした。

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2008年09月01日

スターに会いたくて

集英社の映画雑誌「ロードショー」が休刊になるそうだ。
今までよく頑張ったというところかもしれない。
しかし、新聞などによると「ネットに押されて部数が減少し」ってことになっているけれど、それはちょっと違うんじゃないかなと思う。

「ロードショー」が35万部を売り上げたピークの記録は、スピルバーグの「E.T.」が公開された時だった。社会現象になりましたなあ。あのグロテスクなETのぬいぐるみがバカ売れしたんだから、女の子の「カワイイ!」は今も昔も軽くみるもんじゃありません。
あの頃僕は高校生。前売り買いましたよ、ET。好きだったクラスの女の子を誘おうと思って。
学校で誘おうと思うんだけど、1日ちらちら彼女を見るだけで、結局声もかけられずぐったりして帰宅。
よしこうなりゃ電話しかないと(当たり前)、勇気を奮い起こして夜8時(つまり2時間くらいどーしよーか電話の前で悩んでいたのね)、彼女の自宅に電話。

「もしもし紅灯ですよかったらET観ませんか前売りあるんですこれがなぜかたまたま来週の日曜日なんてどうですか都合が良ければ」
私の最初で最後のマシンガントークでした。
すると電話の向こうはしばし沈黙。あれ、と思って再び口を開きかけた瞬間、間髪入れず返事がありました。
「あ、妹のお友達かな?呼んできますね、妹」
その後本人に何話したかなんて憶えてるわけがない。顔どころか体中が燃えるように熱かったのだけは鮮明に覚えてるけど。たぶん40度以上は出てたな、あの時。
この一件以来、いまだに私は電話が嫌いです。
今のガキどもの恋愛が軽いのは携帯ですぐに連絡取れるからだ!なんて思うのはまあ、この世代のオッサンの共通項でしょうな。

「E.T.」はちゃんと二人で見に行きました。同じクラスの野郎と。
スピルバーグの映画の中ではそれほどいいとも思えなかったけど、まあたぶんそれは多分に個人的な遺恨が含まれているのかもしれない。
それより「E.T.」に関するいろんな情報はみんな「スクリーン」や「ロードショー」から学んだ。あ、「スクリーン」というのは近代映画社が出している雑誌。よく「ロードショー」と見分けが付かないなんて言われていたけど、「スクリーン」は戦前からある老舗で、「ロードショー」の方が後発にあたる。
老舗だけあって、「スクリーン」のほうが何となく垢抜けなかった。写真のレイアウトとか、フォントとか、写真のキャプションやコピーとか、全体に古くさい感じがした。中でも人名の表記が独特で、「アル・パシーノ」とか「スチーブン・スピルバーグ」とか。いわゆる老舗のこだわりがぷんぷん漂っていて、私は逆になんだかそう言うところに惹かれて「スクリーン」の方を愛読していた。
なんていって実はポルノ映画情報も「スクリーン」に載っていたからというのは大声では言えないがこれも大きな理由(「ロードショー」は途中でなくなった)。

この頃僕はイザベル・アジャーニーに恋いこがれていた。アジャーニーは当時既にフランスを代表する女優だったけれど、この頃フランスと言えば「ラ・ブーム」のソフィー・マルソーが大ブレイク中。アジャーニみたいな渋めの女優にはなかなかスペースを裂いてくれないのが不満だった。
「スクリーン」も「ロードショー」も、要は「明星」の外タレ版みたいな雑誌なのでそれが当たり前なんだけど。
でも、アジャーニの映画なんて、アメリカで作った「ザ・ドライバー」以外はテレビの洋画劇場ではやらないし、田舎町に名画座なんてないし、あっても金もないし、とにかく情報がない。つまりご尊顔をあがめる機会もなかったんだね、グラビア雑誌以外には。

レンタルビデオという、チープなアイディアの割に映画に革命をもたらしたシステムはこのすぐ後に現れた。レンタルビデオは、映画作りとか、興業の形態とか、そういう映画産業の根本に大きな変化をもたらすことになったわけだが、その一方で、田舎の色気づいたガキの生活も変えた。

それまで「スクリーン」や「ロードショー」でテレビの洋画劇場や深夜劇場を一ヶ月先までチェックし、それでも好きな女優にあえなければグラビアでページを眺めて我慢していた坊主は、いつでもほんの数百円でアジャーニに会えることに気づいたのだった。
アジャーニだけじゃない。デニーロやホフマンの名作も、深夜にさんざんカットされ半分くらいしか残っておらずストーリーもよく分からなくなったものを大事にビデオにとって観る必要もなくなったのだ。ああ、なんてすばらしいんだ!

そして少年はさんざん世話になったチープなグラビア映画雑誌に背を向けた。
彼はミーハーな自分を卒業した気になって言い放った。
「あんなものは子どもが読む雑誌だ」

それからずいぶんと時が経ち、彼はあの頃の自分を慰めてくれた雑誌が一つ、姿を消すことを知った。
今彼は、映画をミーハーに楽しみたいと思ってる。
心の底から思っているのに、もうそれは実現できない歳になってしまった。
彼の手の中にあるのは、懐かしさだけ。
やっぱり、もう「スクリーン」を買うことはないだろう。
ラベル:ロードショー
posted by 紅灯 at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月31日

悪を殺せ

少々前の話になるが、盆休みに帰省して暇を持て余し、何を見たいということもなく映画館へ出かけた。シネコンなので拾いものがあるわけでもなく、おまけにちょうどこの日の夜には花火大会も予定されていたので、花火の前に「ポニョ」でも観ようかってなカップルでチケット売り場はごった返していた。
シネコンでカップルで花火大会である。一人で映画を楽しむのに最高のシチュエーションとは言い難い。参ったなと思いつつ上映リストを見上げると目を引くタイトルがあった。

「ダークナイト」

我が偏愛するクリストファー・ノーランの新作だ。とはいえこれは「バットマン」ノーランシリーズの第2作目で、前作は観ていない。映画では食わず嫌いをしない私としては珍しく、アメコミの映画化が苦手である。実をいうとスパイダーマンもハルクも観ていない。良い評判は聞くのだが。
ただこの「ダークナイト」はCMでちらりと見て印象に残っていた。最近のアメリカ映画でTVCMが印象に残ること自体珍しい。それに「ダークナイト」というタイトルのみで「バットマン」がまるで強調されていないのにも好感を持っていた。かなりノーランの作家性が出ているフィルムのような気がしたのだ。

しかし一方でイヤな話も耳にしていた。全米公開の第1週のボックスオフィスが160億円というとてつもない新記録を打ち立てたというのだ。この手の記録を謳われる映画にまあロクなものがないというのが私の偏見だ。
とはいえ、ヒマだし一人でポニョ観てもしかたない。ちょうど時間もタイミングが良かったので躊躇なくチケットを買った。

驚いたことに客席はほぼ満席である。バットマンシリーズなのだから驚くこともないのかもしれないが、何となく違和感がある。なぜ違和感が、と思ったら、カップルに対抗するように一人の客が目に付くのだ。それも女性の一人客も割といる。何となく期待が高まる。

映画はバットマンの偽物が現れるところから始まる。前作を観ていない私には少々理解できないシーンもあるにはあったが、すぐに映画の設定は飲み込めた。
いきなり登場したバットマンはコスチュームがマッチョで、なんとなく桃太郎侍を連想させたが、バットマンスーツを脱ぐとクリスチャン・ベイル。かなりギャップがある。
ベイルはノーランの前作「プレステージ」での人を食ったような怪演がまだ記憶に新しいせいか、正義のヒーローと言うより、「こいつまたなんかやらかすんじゃねーか」みたいな雰囲気を漂わせている。
バットマンとタッグを組む熱血正義漢の地方検事には、二枚目過ぎて怪しすぎるアーロン・エッカート。
でもってバットマンの忠実なる執事にはなんとマイケル・ケイン。正体不明の怪しげなオッサンを演じさせたらこれほどうまいヤツはいないという、ほとんどハリウッドの寺田農だ。バットマンの執事がマイケル・ケインなんだから、「ひょっとしたらバットマンは実は悪いヤツというオチなのかもしれない」と裏の裏を読もうとする映画ファンは決して少数派ではないと思う。
でもって、警察内部の裏切りに頭を悩ます正義の刑事がゲイリー・オールドマン。って、おい、裏切り者は普通オールドマンだろう。
こんなキャスティングだから落ち着かないというか、善悪安心して観られないこと甚だしい。
この映画、悪役ジョーカーを見事に演じたヒース・レジャーのキャスティングに注目が集まっているが、他のキャスティングにもこれだけあからさまな狙いが込められているからこそレジャーの異常なジョーカーぶりが映画の中でしっくり来たと思う。例えば、ジョーカーと言えば悪趣味な化粧というかピエロのメイクがバットマンより有名だけれども、この映画ではジョーカー自身の汗で滲んだり剥げかけたりしている。はっきり言って薄汚い。こんなジョーカーイヤだ!という人もいるだろうが、記号としての(マンガのキャラクターとしての)「ジョーカー」を否定しているだけにすぎない。

なのに、「バットマン」は徹底して「バットマン」として描かれている。
今時こんなヒーローの造型は時代遅れだろうっていうくらい、ロコツに「バットマン」はヒーロー。
なにしろバットマンはその事に悩むくらいなんだから。
そう、これこそがノーランのたくらみ。

悪に再び汚されつつある街の情況を冷静に分析しようとするバットマンは、自らの行動が正しいのか悩み続ける。その間にもジョーカーは着々と手を打ち、行動を起こし、悪を広めていく。観ている方はイライラさせられる描写の連続だ。ついつい誰もが思うだろう。
「悩んでいるヒマがあったら、あいつを殺せ!」と。

実際、この映画では、普通の市民たちが不安や怒りに駆られ、ジョーカーの思うつぼと知りつつも、自らや家族を守るためになんの恨みもない同じ市民を殺す、または殺そうとするシーンをイヤと言うほど見せつけられる。「やらなければこっちがやられる」という「テロとの対決」の真実が徹底して卑俗に暴かれる。その卑俗さをメイクの流れた汚らしいジョーカーが象徴する。
しかしそれに対してバットマンは何もできない。暴れるジョーカーに便乗して甘い汁を吸おうとする中国マフィアのマネーロンダリングは摘発するが、本筋であるジョーカーには手を焼くだけ。
それはバットマンが「ヒーロー」であるからだ。ヒーローは決して間違ったことはしてはいけない。たとえ相手が悪人でも、「大量殺戮兵器がある」などと嘘を言って闇討ちにするようなマネはヒーローには許されないのだ。

映画では、バットマンに代表される「正義」は頼りないもので、ジョーカーに代表される「悪」は頑強なものとして描かれる。なぜなら「正義」は相対的なものに過ぎないうえ、いろんな民主主義的手続きを踏まなければならず、それをすべて無視して突き進む「悪」は絶対的なものであるから、結果的に悪の方が強くたくましく見えるのだ。それはアメリカが、アメリカ人が、西部開拓の時代から今も求め続ける強くたくましい「力」と重なっていく。

もちろん今やそれはアメリカに限ったことではなくて、何も迷わず即断即決、ワンフレーズポリティクス、わかりやすい言葉、断固たる決断と行動力こそがリーダーの条件などともてはやされるどこぞの国でも同じことだ。結局グローバリズムなんていうものは、自分の頭で考える思考力を代行するシステムのことに過ぎない。何が正しいかなんて個々人に判断されるとグローバリズムは成り立たない。

我が日本を代表するヒーロー、ウルトラマンはかつて、暴れ、街を壊す怪獣を「早く退治してくれ」と懇願する人々に、「勝手なことを言うな」と言い捨てた(帰ってきたウルトラマン「怪獣使いと少年」)。
この映画でアメリカンヒーローは、何のために戦うのか。
ジョーカーの策略に見事にはまり、恋人も友人も(事実上)失ったバットマンは、それでも自らの正義にすがりつき、怒りを奮い立たせる。
それに呼応するように正義を持つ少数の人々が立ち上がるのだが、その段階まで映画は徹底したシニカルなリアリズムで描いてきただけに、この展開を甘いとみるかどうかは意見が分かれると思う。
しかし、その後の結末も決してハリウッド的調和では終わらないから、これくらいのカタルシスは必要だったと私は思う。
だってこの映画、一応娯楽映画のはずなんだから(観客はもう忘れていると思うけど)。

映画が終わった後、観客の表情は一様に暗い。当たり前だ。何も救いが用意されてないんだから。
これほど後味の悪いヒーローものは、前述した「帰ってきたウルトラマン・怪獣使いと少年」以来だった。
まあ、何も知らずに「バットマンだから」って観にきたカップルは、気分を切り替えるのは大変だろうな。

しかし、アメリカではこの映画にわんさと人が詰めかけ、ボックスオフィスを塗り替えているというのだから、アメリカは「正義と悪」の二項対立がどれだけ無意味であるかに気づき始めたのだろうか。
それともついに狂い始めたのだろうか。

ラベル:ダークナイト
posted by 紅灯 at 20:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月24日

エルミタージュ・ドゥ・タムラ

フレンチの名店として知られるエルミタージュ・ドゥ・タムラに行く機会がありました。
以前、オーナーシェフの田村良雄さんの著書を読んで、一度行ってみたいと思っていました。
素材重視の料理への姿勢はもちろんですが、文章から伝わる誠実で柔和な物腰が「ああ、この人の作る料理はうまいだろうなあ」と思わせるものがありました。

メニューは3種類のコースのみ。コース苦手、アラカルト重視派の私としては最初ちょっと抵抗がありましたが、著書を読んで納得。信頼のおける網元からしか魚介を仕入れないので、アラカルトとして定番メニューを揃えるのは無理がある。それより、その日入った食材でコースを組み立てる方がよいという考え。確かに立地を考えると正解だと思う。

コースは8000、12000、15000円の3種類。今回は12000円を頼みました。
1品目は「萩の鱧パスタ 黄色いガスパチョソース」。
ハモのすり身を塩のみでトコロテンの要領でパスタ状にし、ミョウガやトウガンとともに黄色いトマトを使ったガスパチョソースであえています。

お次は「茄子のジュレ仕立 ニンニク風味のエスプーマ」。
これは文章で説明するのはなかなか難しいのでありますが、白身の魚をコンソメのジュレでマリネし、そのまわりを焼きなすで包み、セルクルで形を整えたところにニンニク風味のエスプーマをたっぷりかけたもの。すこしニンニクが強いかなと思いました。

3品目は「鮎のサラダ キュウリソース」。
どこのアユかは説明されたけど忘れました。カリカリに焼いたアユにキュウリのソースって、ありふれてる!と思いますでしょうか。いやいやいや、これがそんじょそこらの皿ではありません。
アユの香りを損なわない程度に軽く燻製してあって、さらにパートフィローを巻いてかりっとした食感を高め、汁気たっぷりのキュウリのソースで食感が損なわれないようになっています。
ちなみに、たっぷりのサラダにはソースに使ったキュウリが丸ごと一本、二つに切ってごろんと皿にあわせてあって、丸かじりも楽しめます。田村シェフの「これだけうまいキュウリを使ってるんだぞ」という自信と遊び心が感じられます。

4品目は「萩のウニとランド産フォアグラのアンサンブル」。
これは絶品!ウニとフォアグラのコンビなんてうまくて当たり前だろと言われそうですが、うまいものはうまい。
ウニとフォアグラなのに、ちっともくどくない。ウニの潮の香りとフォアグラの甘みをオクラがつなぎ合わせて、もう天にも昇る心地で平らげました。

5品目は「桃のスープ」
タムラを夏に訪れるほとんどの客が楽しみにしていると思われる名品。
実をくりぬいた桃を凍らせて器にしており、桃の果肉の冷製スープと一緒にシャーベット状になったところを削りながら食べます。

6品目の魚、「真魚鰹のアジア風マリネ 野菜のピラフ添え」
真魚鰹の脂のノリ、皮パリ中しっとりの焼き加減、ソースの塩梅。言うことありません。
ソースは最初バルサミコかと思ったんですが、ニンニクの黒酢漬けを使ったものだそうです。
本日のベストディッシュ。

7品目の肉、「イタリア産子兎のロティ ロゼワインソースラヴェンダー風」
子ウサギの柔らかさと独特の軽いクセがロゼソースに包まれて、優しさと野趣が同居する逸品。

チーズ。
7種類くらいのお勧めの中から、マールでウオッシュしたエポワスや、脂肪分が通常の倍以上というクリーミーで濃厚なブリなど3種をチョイス。それまで白ワインを飲み続けていましたが、せっかくなのでマール(ブルゴーニュ)も注文。

デザート
3種類の中からチョイス。私はマンゴープリンココナッツソースを選びました。
コーヒーはエスプレッソをオーダー。

最後に。
メロンとメロンスープで〆でした。

実は最初にちょっとしたトラブルがありました。
前述のように1万2000円のコースを予約していたのですが、当日、着席するとどうもおかしい。
若いウエイターさんがコースメニューを持ってきたあと、「おきまりですか?」。
「予約の時にお願いしていますが?」と答えると、「すみません、言い方が適切でなかったです」となんだか分かったような分からないような返事。
で、渡されたコースメニューは、予約時に聞いたコースと比べてやや寂しい気がしたし、そもそも桃のスープがありません。聞くと「サイドオーダーになります」とのこと。では、と追加して、食事に入ったのですが、疑念は消えません。
で、結局途中で「このコースは予約したコースと違うのでは?」と尋ね、ようやく8000円のコースと取り違えられていたことが判明しました。
その後のウェイターさんの対処の仕方はそれほどスマートとは言えなかったのですが、フロアホステスを務める田村夫人が謝罪に来られ、最後には田村シェフご自身も来られてかえって恐縮しました。
タクシーに乗って店をあとにするまで田村夫人の細やかな気遣いは続き、初めての来店にもかかわらずゆっくりと会話を楽しむこともできました。

近年タムラは予約も取りにくく、有名になりすぎたのか、ネットでは厳しい意見を目にすることが多くなりました。
しかし私としてはやはり今も最高レベルのフレンチだと思います。
野菜をはじめとする旬の素材の数々(旬以外のものは全く出てこない)は文句の付けようがありませんし、その素材を最大限生かすための想像力は生き生きとして、それを実現するための技術は申し分ありません。
1年に1回訪れたい、大切な店です。

ラベル:フレンチ
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2008年06月21日

あすから韓国

なんですが、天気がなあ。
ビートルで海を渡るんです。
気象予報士さん、対馬海峡大荒れだっていってたなあ。

そこに鯨激突、なんてしゃれになんないし。

でもまあ、行ってきます。

はい、オフですので(苦笑)。
ラベル:韓国
posted by 紅灯 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月08日

人生の見つけ方っていわれても その2

さて、「最高の人生の見つけ方」の監督はロブ・ライナー。
80年代後半に「シュア・シング」「スタンド・バイ・ミー」「恋人たちの予感」「ミザリー」と立て続けにスマッシュ・ヒットを飛ばしました。
現在も「ストーリー・オブ・ラブ」「迷い婚〜すべての迷える女性たちへ」と、ラブストーリーに軸足を据えてなかなかいい映画を撮っています。
センチメンタルだけどさほど甘ったるくならず、洒落た味のする作品を撮らせたらうまい人です。
おっと、こういうタイプの監督と言えばもう一人いましたね。前回登場した「愛と追憶の日々」のジェームズ・L・ブルックスです。そう言えばどちらもTV出身。だからってわけではないでしょうが、ブルックス映画では「凄くイヤなヤツだけど実はいい人」路線まっしぐらのニコルソンと組んでみました(ちなみに「ストーリー・オブ・ラブ」ではブルース・ウィルスと組んでいるので、こういうタイプをうまく使う自信があるのかもしれません)。
共演にはモーガン・フリーマン。こちらは「インテリだけどいい人」をやらせたら右に出るものはいません。
この組み合わせで期待するなという方が無理。

さて、映画はニコルソンとフリーマンのそれぞれの日常を簡単に描いて入院シーンに流れ込みます。この導入部はテンポも良く、端的に二人のキャラを紹介するあたりはさすがライナー職人技です。
なんですが、入院してから延々と病室のシーンが続いて息苦しくなってきます。後半のカタルシスのための計算だとは思うし、ヨーロッパ映画ならよくある演出法ですが、娯楽第一のハリウッドでは珍しい。話の展開もうまく流れないし、よく試写の段階でOK出たなと思ったら製作もライナー自身でした。最近製作と監督を兼ねるのって多くなったけど、やっぱり甘くなっちゃって裏目に出ることが多いと思う。
それに、大金持ちのニコルソンと、平凡な市民のフリーマンを同じ病室にするための仕掛けがこなれてなくって、どうにも話に乗りにくいのは否めません。一言で言えばご都合主義。
後半は、死ぬまでにやりたいことを次々にやっていくわけですが、末期のガン患者だからといってそんなに体力がないことはないという事実は割り引いても、この二人元気すぎるし。とにかく話がちぐはぐなのがどうにも目立つんです。ジャスティン・ザッカムという脚本家は、これ以外にフィルモグラフィーがないのでよくわかりませんが、あまり評価できる本ではないと思います。
最後にちょっとしたどんでん返し(というほどでもないけれど)が用意されていますが、果たして必要があったのかというと……。

結局「最高の人生の見つけ方」という割には(原題は「棺桶リスト」)、どうにも冗漫な印象なんですな。
金に飽かせていろんな夢を実現するというのは、まあ、おとぎ話で、その先にあるものをつかんでいく、という展開のはずなんですが、金に飽かせるシーンがこれまたえらく長くて(予算かかったところって、切りにくいんだよな。だから監督と製作を兼ねるのは……(略))、肝心の次のステップがばたばた片付けられちゃってる。
これだと「結局金じゃん、最高の人生ってさ」なんて誤解されかねない映画になってる気もするんですが。

ただ、二人の演技は十分に見る価値はありますし、ニコルソンの秘書役のショーン・ヘイズが拾いものです。これからの有望株かも。


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2008年06月04日

人生の見つけ方っていわれても その1

世の中不公平なもので、普段冷たい人とか悪いヤツがちょっといいことしたりすると、「ホントはいいヤツじゃん」なんて急に株が上がったりするものです。
4月末に小田和正のコンサートに行ったんですが、途中、小田和正がステージから一番遠い客席を指さして、「ねえ、そこのほとんど霞んじゃってる席の人たち、そこも値段同じなの?」と声をかけていました。
コンサートが後半に入ると、小田和正、アリーナに縦横にめぐらせていた花道から飛び降り、その一番奥の席の方へ客席をかき分けるようにしてずんずん上がっていきます。もう周囲はパニック状態。ガードマンだかスタッフが一人、小田和正を守るようにくっついていますが、小田さんそんなのお構いなし。客がさわろうが何しようが歌いながらずんずん進む。終いにはモニタービジョンのカメラもアップでは追えなくなって、なんだかラグビーのモールが動いてるぞみたいな画面に。
ようやく花道に戻ってきた小田さん、「歌もろくに歌えない状態になっちゃってごめん。でもやっぱり霞んじゃってる人にも楽しんで欲しいし」みたいなMC。万雷の拍手。いやー、意外といい人だよね小田和正って、実はこんなにいい人だったんだムード全開。
年末恒例のTBSの小田和正特番で、かつていくら呼びかけてもだーれもミュージシャン仲間が来てくれなくてブンむくれてた小田さん、改心したのでしょうか。去年の番組では、さだまさしが小田和正のわがままぶりをさんざんからかってましたけれども。でも最近、「みんなに感謝」みたいな似合わない歌詞書いてるしなあ、なんて。
あんまり小田和正ネタをやってると、熱狂的なファンから激烈なお叱りが来そうなのでこの辺にしておきますが、要するに普段そう言うイメージじゃない人がちょっといいことすると、凄く得、と言うことであります。

その西の代表といえば、この人以外にいませんな。
その名はジャック・ニコルソン。
「カッコーの巣の上で」とか「シャイニング」とか「チャイナタウン」の頃は、普通にうまい俳優(なんだそれは)だったんですが、その後どんどんどんどん悪相になってくる。ほんっとにこの人、イヤなヤツなんだろうなって思わせるくらいにイヤな顔になってくる。
で、ついに掘り当てた金鉱が「愛と追憶の日々」。いい映画でしたね、これ。邦題はひどいけど、未見の方は是非。
ここで演じたのが、主人公の隣に住む、酒浸りで自堕落でスケベで傲慢な元宇宙飛行士。でも実はシャイでいいやつ。そんな極端で都合のいいキャラ、リアルに演じられるヤツがいるなら連れてきてみろ!って連れてきたのがニコルソンなんでしょうな。
当然のようにオスカーを手にしました。
この後もどんどんどんどん悪相になっていって「イーストウィックの魔女たち」では本当に悪魔になっちゃいましたが(違和感なかったなあ。あれに比べれば「エンゼル・ハート」のデニーロ悪魔なんて上品すぎですな)、再び「愛と追憶の日々」のジェームズ・L・ブルックスと組んだ「恋愛小説家」が大ヒット。
その後は、定年退職した親父の哀愁を描いた(って、ニコルソンが定年退職サラリーマン?まさか!)「アバウト・シュミット」、「恋愛適齢期」と立て続けに「やなヤツだけど実はいい人」を演じ続けてきました。
で、今回は「最高の人生の見つけ方」。
見てきました。

でも長くなったので続きます。

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2008年05月27日

追悼・シドニー・ポラック

また一人、好きだった映画監督が亡くなってしまった。
シドニー・ポラック。職人監督と言っていいと思うし、本人もうれしいかもしれない。

サスペンス、ラブロマンス、ミステリ、アクション、国際陰謀もの、とにかくまあ節操なく何でも撮った。
で、どれも楽しめる娯楽作ばかり。ハリウッド映画はこうでなきゃっていう「顔」のような人だった。
監督作で言えば、ダスティン・ホフマンが女装して話題になった「トッツィー」、バーブラ・ストライザンドとロバート・レッドフォードという誰も考えないだろうこの組み合わせでラブロマンスはっていうのに大ヒットした「追憶」、地味なのに面白いCIAもの「コンドル」、アル・パチーノのメロドラマ「ボビー・ディアフィールド」、ポール・ニューマンの社会派ドラマ「スクープ」、アカデミー賞を総なめにしたメロドラマの王道「愛と哀しみの果て」、トム・クルーズのサスペンス「ザ・ファーム法律事務所」など、こうして挙げると旬の俳優を実にうまく使いこなしているのが分かる。

この嗅覚の良さはプロデューサーとしても存分に発揮され、ミシェル・ファイファーの魅力全開「恋のゆくえ・ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」、マイケル・J・フォックスのナイーブさがうまく生かされた(ヒットはしなかったけど、これはフォックスの代表作と言っていいと思う)「再会の街」、ハリソン・フォードのイメージをスター・ウオーズから「演技派」に塗り替えた「推定無罪」と、いとまがない。
本当にハリウッドの持つ「良さ」「明るさ」「屈託のなさ」を体現した監督だった。

で、ここでは余り注目されそうにない1作を取り上げたい。
初期の一本「ひとりぼっちの青春」。
賞金のために過酷なダンス・マラソンに出た一組のカップル(ジェーン・フォンダとマイケル・サラザン)が、過酷な試練を乗り越えて……というと、今ならいかにもアメリカ的なハッピーエンドを想像しそうだが、そうはならない。この救いようのないラストはハリウッド映画史のなかでも特筆に値する。
1969年という製作年ならではであるけれど、狂気と悲壮感と絶望に充ち満ちた映画だ。格差社会は今に始まった問題ではないし、希望と絶望は表裏一体。アメリカン・ニューシネマに乗っかったと言えばいかにもポラックらしいと思われるかもしれないが、しかし、常にポラックの映画にあふれる優しい視線は、この映画が出発点となったことを考えると、逆にわかりやすいのではないかと思う。

(映画のタイトル表記ミスを手直ししました。ご指摘ありがとうございました。タイトルはちゃんと確認しなきゃね。5/28)
posted by 紅灯 at 20:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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