2009年11月01日

おいおい、いいのか

出版の校正作業と追加原稿の執筆が追い込みに入ってるところに、本業の方もけっこうドタバタしたりと、なんだかやたら忙しい。本も読めない、映画も観れないと欲求不満が募ることおびただしい今日この頃。ストレスがたまると買い物で解消しがちという悪癖を持つ私は、観る時間もないくせにDVD情報などをチェックしておりました。

そしたらビックリ。
「刑事コロンボ」のDVDボックスが今月再発になるじゃないですか。再発自体は前も1回あったので驚かないけど、驚いたのはその価格。5枚組1セットで定価4980円。amazonなら3686円。で、4セットで旧シリーズ全巻揃う。全部揃えても1万5000円しない。
だって、去年出たコンプリートボックス2万6500円だよ。んでこれ、完全限定生産という触れ込みで完売したらしくて、ネットなんかじゃ4万〜10万以上で売ってたんだよ。安く出るのはいいんだけど、前に買っちゃった人怒ってないかな。プレミア見込んで沢山買っちゃった業者とかどうするんだろ。

んで、「コロンボ」がユニバーサルなので「ひょっとしたら」と思ってみたら、やっぱりあった。
「大草原の小さな家」シリーズ。こちらもユニバーサルで、シーズン1から8までが一昨年から今年8月まで続々出てました。そのときは1シーズン8枚組で1万7800円。長らくDVD化されなかったこともあって結構売れたみたい。シーズン1なんてすぐにプレミアついてたし。僕も欲しいと思ったんだけど、TVを同録したのがビデオでほぼ全巻残っているので(場所とるんだこれが)思案していたとこだったんです。
それがあなた、シーズン6までがやっぱり今月新価格で再発。それぞれ定価4980円(amazon3686円)。
シーズン6まで去年買った人は計10万6800円(!)。今月買えば2万2000円。
8枚組で3600円って、一枚400円ちょっとの勘定ですぜ。

いやー、これ怒るって。廉価版の再発はファンにはありがたいものだけど(私なんぞ早速買おうと思ってたりする)、これはちょっとね。ユニバーサルに何があったのか。在庫一掃しなきゃいけないのかな?

posted by 紅灯 at 12:54| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月31日

追悼・モーリス・ジャール

映画音楽の作曲家というのはなかなか報われない商売である。
映画を左右しかねない重要な要素であるのに、映画評論において主役になることは──ミュージカルなどを除いて──まずない。サントラファンと映画ファンは意外と重ならないことも多いし。
ただこれは理由のないこともなくて、映画音楽の過程では監督が作曲家にイメージを伝える時、既成の曲などを付けて「こんなイメージで」とオーダーすることが多く(テンプトラックという。「添付」トラックではなくテンポラリー・トラックなんだけど、添付トラックでも意味があってるのが笑える)、そのイメージに引きずられて「どっかで聞いたなあ」みたいな曲になってしまってオリジナリティが低くなっちゃって、余り評価されない。

なので結局一握りの有名作曲家に依頼が集中してしまう。
その代表格がエンニオ・モリコーネで、一体何曲書いてるのやら。400とも500ともいわれるけど、きっと本人もわからないだろうな。
モリコーネほどではないにしろ、やはり職人的作曲家だったのがモーリス・ジャールだ。
余り指摘されないけど、個人的にはこの2人、共通しているところが多いように思う。
まず、1人の監督との出会いが大きく運命を変えた点。
モリコーネといえばセルジオ・レオーネ、ジャールといえばデビッド・リーンを抜きには語れない。
大作曲家の地位を築き上げた後も、大作映画・芸術映画だけではなく、どちらも様々なジャンルや低予算映画にも曲を提供している。ジャールでいえば「マッドマックス・サンダードーム」(ティナ・ターナーのやつね)、「ジェイコブズ・ラダー」、「ゴースト」なんかも手を抜かずきっちり仕上げてる。
そういえば、どちらも唐突に日本関係の仕事もしてる。ジャールは「首都消失」、モリコーネはNHK大河ドラマ「武蔵」。どっちも作品自体はアレだったけど。
そして、曲作りの姿勢。
映画音楽は割と昔から分業が進んでいたけれど、この二人はどちらもオーケストレーションまで自分でやってしまう。曲のアレンジなんてほとんど収入に影響しないから、大御所なんてまず自分で面倒なオーケストレーションなんてしない。きっとこの二人、作曲が楽しくてたまんないんだろうな。

もちろん、モリコーネが異端児と呼ばれ続けたのに対して、ジャールは比較的王道を進んだようにその作風は全然違うし、ジャールが3回もアカデミー賞に輝いたのに対しモリコーネはいまだゼロだったりするけれど、映画音楽というジャンルにかける姿勢はよく似ていると思う。

ジャールの代表作を上げろといわれるとなかなか難しい。
アカデミー賞の「アラビアのロレンス」と「ドクトル・ジバゴ」は掛け値なしに素晴らしい。特に「ジバゴ」はフランス人作曲家がロシアのバラライカを自在に操るという楽しさも魅力。未見の方は是非どうぞ。

ただ、追悼コラムには余り光の当たらないものを取り上げるという当ブログ的には、ここは「危険な情事」を勧めたい。
マイケル・ダグラス主演、エイドリアン・ライン監督のあのサイコサスペンス不倫映画(何なんだそれは)もジャールなのである。すでに3度もオスカーを貰って大大大御所にもかかわらず、サスペンス映画の基本をきっちり押さえて気配り一杯の丁寧な仕事ぶり。
あの「ウサギ鍋」のシーンは、確かにラインの演出は見事だけどサントラ抜きには語れないでしょう。平凡と言えば平凡。でもこれがサントラというお手本。大御所になっての一切手抜きナシのこの仕事は素晴らしい。
今度見る機会があれば、是非音楽も意識してみて下さい。



posted by 紅灯 at 18:26| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月14日

ホワイトデーの贈り物

少し前だが、「ベンジャミン・バトン」を見た。
ブラッド・ピットの若返りCGが話題の映画だ。
一応原作はかのフィツジェラルドがクレジットされていて、実際同名の短編小説もあるのだけど、全く別物である。若返る主人公という設定のみを(そしてフィツジェラルドの名前を)頂いただけ。ハリウッドというところはかつて落ちぶれたフィツジェラルドを二流映画の台本書きとしてずいぶん便利に使ったが、「20世紀最高の作家」などと呼ばれるようになったらなったで今もしっかり利用している。さすがにこすっからいところである。

以下、ストーリーや結末の一部に触れていますのでご注意を。

さてその「ベンジャミン・バトン」。
もっとシリアスな映画かと思っていたら直球ど真ん中の恋愛映画だったのは意表を突かれたが、面白い。良くできてる。フィンチャーの映画としては「パニック・ルーム」や「ゾディアック」よりずっといい。
そろそろ大御所の風格も漂わせてきて、映画のテーマがテーマだけに、いつまでも若くはないんだなと思わせたりする。

この映画、要はブラピとケイト・ブランシェットという幼なじみが成長し、結ばれ、別れるまでを実際に起きた現代史のエピソードを散りばめながら描いていく。
そう、「あれ、なんかこれって『フォレスト・ガンプ』みたい」と思ったら脚本は同じエリック・ロスだった。この人って「グッド・シェパード」みたいなぴりぴりしたサスペンス書かせると抜群にうまいんだけど、ラブロマンスは何か妙なことになるので要注意である。「フォレスト・ガンプ」もあの二人の恋愛描写に納得できなかったのは私一人ではあるまい。基本的に「奔放な女と翻弄される男」のパターン。
ところが今回、このパターンに思いがけない男からの反撃が用意されていたのである。

映画の終盤、ブラピとブランシェットが久しぶりにベッドを共にする。二人とも歳は50代の筈なのだが、若返っていくブラピの外見は二十歳前後にしか見えない。
事が終わって、身繕いをするブランシェット。ベッドに横たわるブラピ。
これ以上は映画で見ていただきたいが、大変に意地が悪く痛々しく切ないシーンである。
実はこのシーンの前まで、「話題作りとしてはわからんでもないけど、こんなストレートな恋愛映画なら若返っていくなんて面倒な仕掛けする必要あるのかな」と感じていた。でもこのシーンを見て「なるほど、これがしたかったのね」と感じ入った次第。
映画史に残る残酷シーンである。

それにしても、だ。
女性にとって加齢というのは人生において大変大きなテーマなのだろう。男性だって歳や見た目を気にすることはあるけれど、おそらく女性のそれとは比べものにならないというか、その心情を心底理解するのは難しいだろう。
ただ、日本やアメリカの女性は特にこの加齢に敏感すぎるきらいがあると思う。ヨーロッパだと、大人の女性の美しさは少女のそれとはまた別物という共通認識が社会に存在していて、それが成熟した文化を生み出すバックボーンの一つにもなっている気がする。

この映画でも、ベンジャミン・バトンとの出会いによって再び自信を取り戻していく女性(ティルダ・スウィントン)が登場するのだが、やはりイギリス人という設定である。
そしてこの映画の最大の問題は、ヒロインであるケイト・ブランシェットよりこの女性の方が断然格好いいことにある。確かにブランシェットは美しく描かれているが、どこか弱い女性として描かれている。その弱さの根源は「加齢」という問題に集約されている。
そのことが最終的に映画を悲劇たらしめているわけだ。

正直に言って私には、無垢な少女より、いろんな経験を重ねてきた女性の方が魅力的に映る。その経験こそが美しく輝くための光の根源となるわけだから。そして光があれば当然影もあるわけで、その陰影が人生を豊かにする。
どうやらこの映画の制作者たちも同じ思いを抱いているようだ。
確かに受け止め方はいろいろあるかもしれないけれど、この映画を女性と一緒に観て、「いい歳を重ねていこう」と語り合うのはちょっといいホワイトデーかもしれない。




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2009年01月19日

悪魔が気づく前に


重く辛く胸が悪くなるような。陰惨で救いがない。絶望。
そんな映画だった。

「その土曜日、7時58分」。

ニューヨーク。兄は会社での使い込みがバレかけている。弟は離婚した妻子の養育費すらまともに払えないダメ男。まあどこにでもいそうな兄弟だ。
「とにかく金があればリセットできる」。
二人が企んだのは強盗。押し込み先は両親の宝石店。保険にも入っているし誰も傷つかないはずだった。しかしずさんな計画にダメダメな男たち。あっさりと計画は破綻し後には悪夢のような──目覚めることのない悪夢が待っていた。

「普通の人間」が出口のない犯罪に追い込まれる過程を細かなエピソードの積み重ねで描いていく。
さらに強盗を軸に時間を往き来しながら、それぞれの登場人物の視点から「なぜこうなってしまったのか」を徹底的に描き出していく。
それが息苦しい。見る者に全く救いを与えない。
登場人物たちは皆一様に一生懸命に生きようと──ナンバーワンでなくてもいいからオンリーワンとして生きようと──努力をしている。どうあれ一生懸命人生を生きている。ひとつの事態が破綻しかけたら、何とか事態を少しでも良くしようと知恵を絞り汗をかく。しかしそれはことごとく悪い方へ転がる。当たり前だ。目の前のことだけに一生懸命で全く周りが見えていないのだから。観客の視点からは悲惨なくらい馬鹿にしか見えない。
目の前のことだけに懸命なので、彼らには正義と言うものが存在しない。正義なんてもので飯は食えないから。そもそも両親の家に強盗に入ることを選択した時点で正義は棄てられている。でも強盗の理由は、人間としてやり直し一から出直すためなので、彼らはその先には正義があると思っている。そう、すでに前提にしてからが馬鹿なのだ。

しかしこれは私たちの当たり前の姿でもある。私たちは理想を口にし、その実現のために今を生きていると思っている。その為には多少の犠牲や罪を犯すこともやむを得ないと何処かで都合よく考えている。「それが現実だ」と。自己欺瞞を重ねて生きていくことが当たり前になっている現代。その先には地獄が待っているんだと告発する。
だから息苦しい。

この映画の原題は「BEFORE THE DEVIL KNOWS YOU'RE DEAD」という。
「あなたが死んだことを悪魔が知る前に」。
これだけではよく意味がわからないが、このタイトルが出る前に、スクリーンに「May you be in heaven half an hour」という文章が綴られる。
「May you be in heaven half an hour before the devil knows you're dead」
──悪魔に気づかれる前に、天国に行けますように。
アイルランドの慣用句だそうだ。

この映画、シドニー・ルメットの新作ということで観に行った。
御年84歳。最近あんまりぱっとしないと思っていたけれど、考えてみれば70歳から84歳までの作品にろくなものがない、などという方がどうかしている。
しかし84歳でこんな映画作るか。何があったんだシドニー・ルメット。

シドニー・ルメットといえば、「12人の怒れる男」であり、「セルピコ」であり、「狼たちの午後」であり、「評決」だ。
「12人の怒れる男」はたった一人の男が11人の陪審員を説得し法廷の正義を実現する映画だったし、「セルピコ」は腐敗した警察の中で正義を信じる刑事が身の危険も顧みず仲間を告発する映画だったし、「狼たちの午後」は銀行強盗に入ったダメ男たちが希望に目覚めていく映画だったし、「評決」はクズ弁護士が正義に目覚め、誇りを取り戻していく映画だった。
正義のない社会に正義を求める。それがシドニー・ルメットのスタイルだったはずだ。
それが84歳にして正義に絶望している。社会派の巨匠はついに正義などというものは存在しないと悟ったのだろうか。
この映画は、家族の絆すら否定したあげく、今年73歳になる名優アルバート・フィニーが真っ白い光に包まれて去っていくところで終わる。全てを否定し葬り去った彼だけは「悪魔に気づかれる前に」天国へ向かったのだろうか。

最後に役者について。
久しぶりのアルバート・フィニーはもちろんいい。
いまやすっかり「怪優」として知られるようになったフィリップ・シーモア・ホフマンは、誰もが持っている狂気に乗っ取られるまでを生き生きと演じている。柔和な笑顔を絶やさず犯罪計画を語るところなんざ瞠目ものだ(しかしこの人、僕より年下なんだよな、びっくり)。
どうしようもないダメ男を演じるイーサン・ホークも素晴らしい。馬鹿なのに,馬鹿の癖に事態を好転させようとしてのっぴきならない羽目に追い込まれる男を説得力たっぷりに演じている。

それから音楽もいい。静かな緊張感を持続させる。
この映画観ていて「ノー・カントリー」とテイストが何となく似てるなあと思っていたら、音楽が同じカーター・バーウェルだった。

とにかくいろんな意味で観て損はない一本。



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2008年12月20日

キング映画2題

立て続けにスティーブン・キング原作の映画を観た。
一本目が「ミスト」。
「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」に続くキング原作&タラボン監督のコンビ3作目。世評の割にこの2作がそれほどいいとは思わなかったので、「ミスト」は劇場に足を運ばなかったのだが、大失敗。この映画は劇場で観たかったなあ。それもシネコンとかじゃなくて大スクリーンで。
とにかく良くできた映画だ。一応ホラーサスペンスなので万人向けという訳ではないが、「化け物より人間の方がよっぽどこわい」というキングの特徴を十分に活かしながらちゃんと映画として見応えある作品に仕上げている。原作に忠実ながらもラストを大胆に変更し、観た後の余韻を深くしている。
で、大スクリーンで観たかったというのは、このラスト直前の、大怪物が主人公たちをゆっくり跨いでいくところだ。
もちろんCGなんだけど、リアルというだけではなくてもう世界が完全に変わってしまったと思わせるムードに充ち満ちている。このシーンがあるからこそあのラストが成立している。
キリスト教原理主義が横行するブッシュ・アメリカを糺弾しながらもそれだけで終わらず、人間の行動原理の浅はかさまで画こうとしている姿勢もいい。とにかくいろんな意味で刺激に満ち溢れた一本。タラボン監督畏るべし。

もう一本は、ジョニー・ディップ主演の「シークレット・ウィンドウ」。基本的にストーリーはデニーロ&ミッキー・ロークの「エンゼル・ハート」そのまんまで目新しいところはまったくない。
じゃ面白くないかというと、これが結構愉しめた。
まずディップの演技がいい。アイドル俳優みたいな取り上げ方をされることもあるけれど、やっぱりこの人はうまいよね。それも「パイレーツ」みたいないかにもセクシー俳優みたいな役ではなく、この映画や「ニック・オブ・タイム」(古いけど)みたいな普通の役をやらせると本当にうまい。ハリウッドでこんな自然体の演技が出来るスターは貴重だと思う。女性ファンは怒るかもしれないけどダメ男役とかをもっとやってほしいと切に思う。
それからカメラがいい。鏡の使い方が効果的で面白い。
そしてそして、ティモシー・ハットン!。「グッド・シェパード」も良かったけど、存在感在るよね。「タップス」のころは真面目な美少年役しかなかったけど、すっかり「いいやつか悪い奴かわからないぞこいつは」っていう性格俳優への道まっしぐら。

というわけで、程度の差こそあれそれぞれ楽しめた2本。
キング原作の映画というとろくなものがないといわれた頃より随分改善されているような・・・といってもまあこれだけ沢山作れば当然なんだろうけどね。

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2008年10月05日

「劇場版」とは言わせない

「容疑者Xの献身」を観てきました。
封切り初日に行くなんてよほど楽しみにしてたのかなどと思われそうですが、たまたま時間が空いたのと、行った回がレイトショーだったので、ドラマの特番の放送時間帯と重なり、空いてるんじゃないかと思ったんです。
甘かった。さすがに立ち見と言うことはありませんが(レイトショーだし)、客席は7割の入り。みんな留守録してるんでしょうね。もうタイムスケジュール通りにテレビを観る習慣なんてほとんどなくなってきたってことでしょう。視聴率なんて意味ないな。

さてその客席。レイトショーにもかかわらず圧倒的に10代後半から20代女子が多い。彼女たちの内訳は、福山ファン6割ドラマファン4割、またはその両方10割といったところでしょうか。
それから30〜40代のおっさん、これは一人客がちらほら。これはミステリファンでしょうな。

さてこの映画、言わずとしれた東野圭吾の直木賞受賞作にして大ベストセラーの映画化です。原作は、丹念に作られたミステリ小説の鏡のような端正な作品で、トリックは細心の注意を払って作ってあります。全編に伏線が張り巡らされ、しかし、お話自身は大変地味といういかにも東野圭吾らしい作品です。
ということはつまり、まったくもって映画化しにくい作品でもあるということです。
こういう映画を観るときのお約束は「期待しちゃいかん」と言い聞かせておくこと。
しかし一方、この映画のベースとなったテレビシリーズは、意外と原作の持ち味をしっかり生かした作りになっていましたので、「期待しちゃいかん」と思いつつも、「ひょっとして面白いかも」などと色気を出しておりました。

以下、結末やトリックに触れている部分があります。未見の方はご注意を。

オープニングはど派手です。ドラマシリーズのノリそのまんま。ですが原作にはありません(当たり前だ)。
「こりゃどうなんだろう」と思いつつ観ていると、いきなり地味になります。
今回の事実上の主役、堤真一演じる石神が住むアパートやその周辺の下町っぽいたたずまいなんて、もう原作のイメージそのままで、良くこんな場所ロケハンしてきたなあと感動したほど。
で、お話はほぼ原作どおり。「いいのか」「大丈夫なのか」とこっちが心配になるほど地味に原作どおりです。
しかし演出は非常に手堅い。時間、場所、人……、ミステリに必要な「伏線」をきっちり押さえています。原作を知らずに初めてこの映画を観た人は、もう一度見直すと「ああ、これか」「ここにも!」ってな感じで楽しめると思いますよ。冒頭の石神の通勤風景の描写にトリックが堂々と写ってたりします。
原作に使われる大技、登場人物の描写によって読者をミスリードする叙述トリックの部分もしっかり取り込んでいるし、とにかく2時間にまとめるための刈り込み方が大変うまい。
さすがに映画としてはあまりに地味なので原作にないシーンも付け加えていますが、これもありきたりながら抑え気味の演出が効果的。
監督の西谷弘という人は「県庁の星」を撮っていますが、基本はテレビの人で、「エンジン」や「ラスト・クリスマス」などを撮ったベテラン。テレビの「ガリレオ」シリーズも手がけていますが、テレビシリーズとはずいぶん趣が違う。最後の方に編集がおかしいと思ったところもあったけど(時間がなかったのか?)、映画とテレビの文法の違いをよく知っている人のように思う。

そしてラスト。
さすがに東野圭吾独特の後味の悪さフルスロットルのあのラストは変えるだろうと思っていたのですが、やりましたね。
CMでも流されている堤真一号泣の意味は・・・。主人公とヒロインが同じ場所で号泣しているのに、それが全くすれ違っているというか、ものすごく広くて深い谷が横たわっています。ミステリ&恋愛ドラマなのに、観客に絶対にカタルシスを与えない終わり方。
あのラストで「ねえねえ、ヒロインは○○のつもりなのに、堤真一は○○なんだよね、そんなのアリ?」などと不安に思った方、たぶんあなたはそれで正しい。
いいのかこれで、という映画ですが、いいんです。
この映画、福山雅治「ガリレオ」を選択せずに、東野圭吾「容疑者Xの献身」を選択したその心意気は見事と褒めておきましょう。
まあ、もともと原作もそうなんですが、そもそも「ガリレオ」というキャラでやる必要のないお話なんですね。ガリレオ役を刑事たちに交換すれば、そのまんま「特捜最前線」とか「七人の刑事」とかで最良のエピソードになりそうな地味で暗い、しかしよくできたお話です。
おかげでミステリ映画としては近年にない上質の映画となりました。
たぶんヒットはしないと思いますが。

映画が終わって出口へ急ぐ女の子たちやカップルたちの表情は一様に芳しくありません。
主人公たちは号泣しているのに客は引くばかりで全然泣けないし(私は主人公の悲惨な心情を思うと泣けてきましたが)、話は(舞台設定は)びんぼー臭いし。
主人公のはずの福山くんは全然活躍しないし(でも相変わらずお洒落。そのお洒落が思い切り浮いてる)。
私の目の前を歩いていた10代後半の思い切りヤンキーなカップルは、剣呑な雰囲気を思いっきりまき散らしながらシネコンを出るまで口を聞くどころか顔を合わせようともしませんでした。あれはこの後「映画を観よう!」と誘った誘わないで間違いなく喧嘩になったと思われます。

最後に役者について少し。
最近妙にインテリの役が多い堤真一は絶好調ですな。JAC(千葉真一が作ったジャパンアクションクラブ)出身だってもう知ってる人も少ないかも。この数年やたら出演作が多いですが、こういう線が太くて幅広い役柄ができる俳優減ったからなあ、貴重なんでしょうな。
福山雅治は、テレビドラマでは割と評価していたんですが、映画は向いていないようです。

あと、益岡徹が相変わらずいい味出しています。

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2008年09月29日

追悼 ポール・ニューマン

亡くなってしまいました。
俳優を引退し、ガンと戦っているというニュースは入っていましたので覚悟はしていましたが、やはり寂しい。以前書いたシドニー・ポラックやロバート・レッドフォード(こちらは存命ですが)らとともに、良きハリウッドを作り上げたビッグネームでした。
若い頃はギラギラとした男臭いイメージだったようですが、うまく歳を重ねてキャリアを積み上げました。
「熱いトタン屋根の猫」→「ハスラー」→「明日に向かって撃て!」→「ロイ・ビーン」→「スティング」→「スクープ・悪意の不在」→「評決」→「ハスラー2」→「ノーバディーズ・フール」と見ていくと、「おお、いい感じで歳をとってるじゃないか」と思いませんか。

作品に恵まれないという言い方もしばしばされる人でしたが、こうやって書き出してみると決してそんなことはない。おそらく、「ニューマンにはもっと代表作があるはずだ」と思わせる何かがこの人にはあるんでしょうね。
アカデミー賞をずっと獲れなかったのも、「うーん、もっといいのが観たい」とアカデミー会員に思わせたのかもしれません。
確かに、男臭い役で人気になったのに、「明日に向かって撃て!」はそれをレッドフォードに譲って、自分はひょうひょうとした食えない男を(でもキャサリン・ロスといちゃつくレッドフォードを陰から見つめる切ない男を)楽しそうに演じていました。
かと思うと「ロイ・ビーン」では豪放磊落な男の中の男、「スクープ」はシニカルなブルーカラー、「評決」は落ちぶれた弁護士が立ち直るまでをしみじみと演じ、でもどれをとっても「ポール・ニューマンである」という印象を残します。といってデニーロのようなすべての役を引き寄せるタイプでもマルコビッチのような憑依型でもないという珍しいタイプの役者でした。
よく言えば底が見えない、悪く言えば手を抜いているように見える、自然体の俳優とでもいうんでしょうか。

私が最も評価しているのは「評決」で、念願のオスカーはこれであげて欲しかったと思いますね、今でも。
ちなみにこの年のアカデミー賞は「ガンジー」「ET」「ミッシング」「トッツィー」そして「評決」が争うという、アカデミー史上特筆すべき激戦の年でした。俳優として「ラッキー」な人生を送ったニューマンは、でもこういう運には恵まれなかった人でした。
でも多くの人がこの映画をニューマンのベストに挙げると思うので、ここは当ブログの追悼記事の慣例として、目立たないけどお勧めの一本を。

それは「スラップ・ショット」(1977)。
連戦連敗のアイスホッケーチームの奮闘ぶりを涙あり笑いありで見せるジョージ・ロイ・ヒルのドタバタ人情ドラマ。ジョージ・ロイ・ヒルはもちろん「明日に向かって撃て!」「スティング」の監督です。しかしこの2作に比べて肩の力が抜けて(抜けきって)、もう本当にリラックスして楽しめる快作に仕上がっています。
チームの監督のニューマンがいいんだなあ。男臭くてバカで、でもナイーブで。
そう言えばポール・ニューマンって、時々見せるバカっぽい表情が本当にバカっぽくていいんです。レッドフォードみたいに「バカやって見せてます」みたいじゃなくて、本当にバカ?と思わせるところが、人なつっこい魅力なんでしょうな。
そういう魅力全開の一作、是非ご覧下さい。


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2008年09月22日

巨匠の夢

他人の夢の話を聞かされることほどつまんないことはないといいますな。
夢と言っても、将来の夢とか15年後の僕への手紙とかじゃなくて、よだれ垂らしながら見る夢の方。
「きのうさ、すっごいヘンな夢見ちゃってさ、全然知らない場所に立ってるんだけどそれが知ってる様な気がして・・・」なんて本人は一生懸命話してるんだけど相手には全然伝わりません。シュールな話を他人に話すのは怪談話より芸が要る。聞いてる方は何が何だかさっぱり分からないというのがせいぜいですな。

夢というのも人それぞれのようで、モノクロの夢を見る人もいるそうですが、私の場合、総天然色はもちろん、匂いも味も普通にあります。それどころか知覚痛覚の類も変わらずあるので、「これって夢かな、キュー」ってほっぺをつねるというのは通用しません。夢の中でしっかり痛いので。
だから、目が覚めた直後は「あ、夢だったのか」で済むのですが、数日経つと、「あれって夢だっけ、現実だっけ」と記憶が混乱することもたまにあります。
なので自分が殺される夢を見たときは、目が覚めた後も1時間くらい立ち直れません。肉体的にも痛みが残ってたりして(まあ、死ぬほどの痛みじゃないんだけど)。

もう一つの私の夢の特徴は、割とストーリーが充実していて、ハリウッド映画のアクションものみたいな展開が少なくありません。ふとしたことから国際謀略に巻き込まれて七転八倒、絶体絶命に追い詰められるも、知人友人の助けを得て反転攻勢、怒濤のクライマックスへ、てな上映時間2時間10分総制作費50億円みたいなの。
こういう夢だと途中で目が覚めても、(あ、続きが観たい)とか思ってもう一度寝ると、大抵はすんなり続きの世界に入っていけます。レンタルビデオを観てて、途中一時停止してビール取りに行ったりするような感覚ね。

とまあ、こういう夢を見ているうちふと思いました。
「一流の映画監督が見る夢って、やっぱり凄いのだろうか?」

だって自分の夢ですからね。構成もセットも思うまま、予算使い放題。現実には無理なカメラワークやCGに頼らなければ不可能な視覚効果でも、夢の中ならいくらでもできます。問題は、その構図や視覚効果、カメラワーク、ストーリーの発想ができるかどうかだけなんですから。一流の映画監督というのはその発想がオリジナルで無尽蔵な訳ですから、すべての現実的な条件が取り払われた夢の世界では、もうものすごい映画が毎晩映画監督の頭の中では上映されているのではなかろうかと思うわけです。でも人の夢は覗けない。でもみたい、スピルバーグの夢を覗いてみたいよお。

とまあ、そういうことは皆さん考えるようで、黒澤明が見た夢を映画化したというふれこみの「夢」なんかがすぐに思い出されますが、どうなんでしょうね。確かにストーリーからは解き放たれていますが、どこかで現実とのバランスを取ろうとして、その結果中途半端になった印象は否めません。むしろ「無駄に金遣ってる」と非難を浴びまくった「乱」の方が黒澤が自分の夢を忠実に映画化したんじゃないかという気もします。

さてさていつものように前置きが長くなりましたが、何の話かというと「ポニョ」を観てきたんです。「崖の谷のポニョ」じゃなくて「崖っぷちのポニョ」でもなくて「崖の上のポニョ」ね。
で、見終えた最初の感想が「これって宮崎駿の夢なんだろうなあ」と。

初期の頃の宮崎作品に比べて遥かにいい加減で緩くてご都合主義な世界観。
妙に歪んだ印象を与える手書きの絵。
全く無意味だけど、ひたすら次のカット次のシーンへ盛り上げていく効果はすばらしい、目先だけを追っているストーリー。
幸せな気分というか、発狂寸前というか、とどのつまり理解不能な色彩設定。

世界観を説明しようとか、ストーリーを破綻なく組み立てようとか、そういう普通の映画作りの努力はハナから放棄されています。これが「子ども向き映画」に設定されたのは、そうした説明努力を放棄しても許されるジャンルだからではないでしょうか。だから同じ作家による「子ども向け映画」といっても「トトロ」とは全く違うジャンルの映画になっている。
宮崎駿の映画作りは、描きたいシーン、描きたい絵を最初に描いて、そこからストーリーを服得たイメージふくらませていくという作法であることはよく知られていますし、そうした創作手法はそれほど珍しくもないですが、今回はもう、ひたすら描きたいモノだけを描き散らしたという印象です。

今回初めて宮崎駿が絵コンテに色を塗って指示をしたといいますが、当然です。あの映画の制作をアニメーションという集団作業の極地でやり通したのは奇跡じゃないかと思いますね。まさに独裁者宮崎駿の面目躍如。基本的に「崖の上のポニョ」というアニメーションは、一人ですべて描く芸術家肌のアニメーション作家が100年くらいかけて作るタイプの作品です。一体どんな映画になるのか、宮崎以外のスタッフは皆目見当が付かなかったのではないかと想像します。
今回鈴木プロデューサーは直前までCMを放送しない、CMを流しても内容には触れないという手法を取って話題を呼びましたが、あれはそうする以外に仕方がなかったのではないでしょうか。

「かわいい」とか「心が温まる」とかこの映画を観て本気でそう思うのか、わたしは不思議でたまりません。
子ども特有の強烈な生のエゴイズムが大量殺戮を引き起こす世界。そこでストーリーと関係なく巻き起こる近親相姦、といって悪ければ近親相克の隠喩暗喩の数々。愛情と憎悪が直截にロコツにぶつかり合う感情過多のエピソードが渦巻く混乱。次々に挿入される過剰なイメージの連続。まさに船酔いする映画。
「ポニョ、ポニョ♪」というあのえげつないほどにかわいらしさを強調したテーマ曲は、「これはヤバイ」と危惧した宮崎アニメの守護霊二人(鈴木・久石)が強引に「ほらこんなにかわいいんだよ、純粋無垢な映画なんだよ」という皮を被せて、世間をだまくらかそうとした策略ではないかと睨んでいます。

夢というのは、わかりやすい悪夢というのは、実は少ないものです。
目が覚めて何となく呆然となりながら、「あれは何だったんだろう」と釈然としないまま忘れていく。楽しかったのか、恐ろしかったのか。その境界が曖昧な世界。

こんな夢を毎晩見て、こんなイメージを体からあふれさせて生き続け、正気を保ち続けている宮崎駿というのは、やはり只者ではありません。
天才宮崎駿を改めて実感させる映画であることは間違いがありません。
前作「ハウル」で予兆はありましたが、ついに暴走を始めた宮崎駿、これからどこへ行くのか気になるところではあります。

教訓
「凡人の夢はつまらないが、巨匠の夢は恐ろしい」


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2008年09月01日

スターに会いたくて

集英社の映画雑誌「ロードショー」が休刊になるそうだ。
今までよく頑張ったというところかもしれない。
しかし、新聞などによると「ネットに押されて部数が減少し」ってことになっているけれど、それはちょっと違うんじゃないかなと思う。

「ロードショー」が35万部を売り上げたピークの記録は、スピルバーグの「E.T.」が公開された時だった。社会現象になりましたなあ。あのグロテスクなETのぬいぐるみがバカ売れしたんだから、女の子の「カワイイ!」は今も昔も軽くみるもんじゃありません。
あの頃僕は高校生。前売り買いましたよ、ET。好きだったクラスの女の子を誘おうと思って。
学校で誘おうと思うんだけど、1日ちらちら彼女を見るだけで、結局声もかけられずぐったりして帰宅。
よしこうなりゃ電話しかないと(当たり前)、勇気を奮い起こして夜8時(つまり2時間くらいどーしよーか電話の前で悩んでいたのね)、彼女の自宅に電話。

「もしもし紅灯ですよかったらET観ませんか前売りあるんですこれがなぜかたまたま来週の日曜日なんてどうですか都合が良ければ」
私の最初で最後のマシンガントークでした。
すると電話の向こうはしばし沈黙。あれ、と思って再び口を開きかけた瞬間、間髪入れず返事がありました。
「あ、妹のお友達かな?呼んできますね、妹」
その後本人に何話したかなんて憶えてるわけがない。顔どころか体中が燃えるように熱かったのだけは鮮明に覚えてるけど。たぶん40度以上は出てたな、あの時。
この一件以来、いまだに私は電話が嫌いです。
今のガキどもの恋愛が軽いのは携帯ですぐに連絡取れるからだ!なんて思うのはまあ、この世代のオッサンの共通項でしょうな。

「E.T.」はちゃんと二人で見に行きました。同じクラスの野郎と。
スピルバーグの映画の中ではそれほどいいとも思えなかったけど、まあたぶんそれは多分に個人的な遺恨が含まれているのかもしれない。
それより「E.T.」に関するいろんな情報はみんな「スクリーン」や「ロードショー」から学んだ。あ、「スクリーン」というのは近代映画社が出している雑誌。よく「ロードショー」と見分けが付かないなんて言われていたけど、「スクリーン」は戦前からある老舗で、「ロードショー」の方が後発にあたる。
老舗だけあって、「スクリーン」のほうが何となく垢抜けなかった。写真のレイアウトとか、フォントとか、写真のキャプションやコピーとか、全体に古くさい感じがした。中でも人名の表記が独特で、「アル・パシーノ」とか「スチーブン・スピルバーグ」とか。いわゆる老舗のこだわりがぷんぷん漂っていて、私は逆になんだかそう言うところに惹かれて「スクリーン」の方を愛読していた。
なんていって実はポルノ映画情報も「スクリーン」に載っていたからというのは大声では言えないがこれも大きな理由(「ロードショー」は途中でなくなった)。

この頃僕はイザベル・アジャーニーに恋いこがれていた。アジャーニーは当時既にフランスを代表する女優だったけれど、この頃フランスと言えば「ラ・ブーム」のソフィー・マルソーが大ブレイク中。アジャーニみたいな渋めの女優にはなかなかスペースを裂いてくれないのが不満だった。
「スクリーン」も「ロードショー」も、要は「明星」の外タレ版みたいな雑誌なのでそれが当たり前なんだけど。
でも、アジャーニの映画なんて、アメリカで作った「ザ・ドライバー」以外はテレビの洋画劇場ではやらないし、田舎町に名画座なんてないし、あっても金もないし、とにかく情報がない。つまりご尊顔をあがめる機会もなかったんだね、グラビア雑誌以外には。

レンタルビデオという、チープなアイディアの割に映画に革命をもたらしたシステムはこのすぐ後に現れた。レンタルビデオは、映画作りとか、興業の形態とか、そういう映画産業の根本に大きな変化をもたらすことになったわけだが、その一方で、田舎の色気づいたガキの生活も変えた。

それまで「スクリーン」や「ロードショー」でテレビの洋画劇場や深夜劇場を一ヶ月先までチェックし、それでも好きな女優にあえなければグラビアでページを眺めて我慢していた坊主は、いつでもほんの数百円でアジャーニに会えることに気づいたのだった。
アジャーニだけじゃない。デニーロやホフマンの名作も、深夜にさんざんカットされ半分くらいしか残っておらずストーリーもよく分からなくなったものを大事にビデオにとって観る必要もなくなったのだ。ああ、なんてすばらしいんだ!

そして少年はさんざん世話になったチープなグラビア映画雑誌に背を向けた。
彼はミーハーな自分を卒業した気になって言い放った。
「あんなものは子どもが読む雑誌だ」

それからずいぶんと時が経ち、彼はあの頃の自分を慰めてくれた雑誌が一つ、姿を消すことを知った。
今彼は、映画をミーハーに楽しみたいと思ってる。
心の底から思っているのに、もうそれは実現できない歳になってしまった。
彼の手の中にあるのは、懐かしさだけ。
やっぱり、もう「スクリーン」を買うことはないだろう。
ラベル:ロードショー
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2008年08月31日

悪を殺せ

少々前の話になるが、盆休みに帰省して暇を持て余し、何を見たいということもなく映画館へ出かけた。シネコンなので拾いものがあるわけでもなく、おまけにちょうどこの日の夜には花火大会も予定されていたので、花火の前に「ポニョ」でも観ようかってなカップルでチケット売り場はごった返していた。
シネコンでカップルで花火大会である。一人で映画を楽しむのに最高のシチュエーションとは言い難い。参ったなと思いつつ上映リストを見上げると目を引くタイトルがあった。

「ダークナイト」

我が偏愛するクリストファー・ノーランの新作だ。とはいえこれは「バットマン」ノーランシリーズの第2作目で、前作は観ていない。映画では食わず嫌いをしない私としては珍しく、アメコミの映画化が苦手である。実をいうとスパイダーマンもハルクも観ていない。良い評判は聞くのだが。
ただこの「ダークナイト」はCMでちらりと見て印象に残っていた。最近のアメリカ映画でTVCMが印象に残ること自体珍しい。それに「ダークナイト」というタイトルのみで「バットマン」がまるで強調されていないのにも好感を持っていた。かなりノーランの作家性が出ているフィルムのような気がしたのだ。

しかし一方でイヤな話も耳にしていた。全米公開の第1週のボックスオフィスが160億円というとてつもない新記録を打ち立てたというのだ。この手の記録を謳われる映画にまあロクなものがないというのが私の偏見だ。
とはいえ、ヒマだし一人でポニョ観てもしかたない。ちょうど時間もタイミングが良かったので躊躇なくチケットを買った。

驚いたことに客席はほぼ満席である。バットマンシリーズなのだから驚くこともないのかもしれないが、何となく違和感がある。なぜ違和感が、と思ったら、カップルに対抗するように一人の客が目に付くのだ。それも女性の一人客も割といる。何となく期待が高まる。

映画はバットマンの偽物が現れるところから始まる。前作を観ていない私には少々理解できないシーンもあるにはあったが、すぐに映画の設定は飲み込めた。
いきなり登場したバットマンはコスチュームがマッチョで、なんとなく桃太郎侍を連想させたが、バットマンスーツを脱ぐとクリスチャン・ベイル。かなりギャップがある。
ベイルはノーランの前作「プレステージ」での人を食ったような怪演がまだ記憶に新しいせいか、正義のヒーローと言うより、「こいつまたなんかやらかすんじゃねーか」みたいな雰囲気を漂わせている。
バットマンとタッグを組む熱血正義漢の地方検事には、二枚目過ぎて怪しすぎるアーロン・エッカート。
でもってバットマンの忠実なる執事にはなんとマイケル・ケイン。正体不明の怪しげなオッサンを演じさせたらこれほどうまいヤツはいないという、ほとんどハリウッドの寺田農だ。バットマンの執事がマイケル・ケインなんだから、「ひょっとしたらバットマンは実は悪いヤツというオチなのかもしれない」と裏の裏を読もうとする映画ファンは決して少数派ではないと思う。
でもって、警察内部の裏切りに頭を悩ます正義の刑事がゲイリー・オールドマン。って、おい、裏切り者は普通オールドマンだろう。
こんなキャスティングだから落ち着かないというか、善悪安心して観られないこと甚だしい。
この映画、悪役ジョーカーを見事に演じたヒース・レジャーのキャスティングに注目が集まっているが、他のキャスティングにもこれだけあからさまな狙いが込められているからこそレジャーの異常なジョーカーぶりが映画の中でしっくり来たと思う。例えば、ジョーカーと言えば悪趣味な化粧というかピエロのメイクがバットマンより有名だけれども、この映画ではジョーカー自身の汗で滲んだり剥げかけたりしている。はっきり言って薄汚い。こんなジョーカーイヤだ!という人もいるだろうが、記号としての(マンガのキャラクターとしての)「ジョーカー」を否定しているだけにすぎない。

なのに、「バットマン」は徹底して「バットマン」として描かれている。
今時こんなヒーローの造型は時代遅れだろうっていうくらい、ロコツに「バットマン」はヒーロー。
なにしろバットマンはその事に悩むくらいなんだから。
そう、これこそがノーランのたくらみ。

悪に再び汚されつつある街の情況を冷静に分析しようとするバットマンは、自らの行動が正しいのか悩み続ける。その間にもジョーカーは着々と手を打ち、行動を起こし、悪を広めていく。観ている方はイライラさせられる描写の連続だ。ついつい誰もが思うだろう。
「悩んでいるヒマがあったら、あいつを殺せ!」と。

実際、この映画では、普通の市民たちが不安や怒りに駆られ、ジョーカーの思うつぼと知りつつも、自らや家族を守るためになんの恨みもない同じ市民を殺す、または殺そうとするシーンをイヤと言うほど見せつけられる。「やらなければこっちがやられる」という「テロとの対決」の真実が徹底して卑俗に暴かれる。その卑俗さをメイクの流れた汚らしいジョーカーが象徴する。
しかしそれに対してバットマンは何もできない。暴れるジョーカーに便乗して甘い汁を吸おうとする中国マフィアのマネーロンダリングは摘発するが、本筋であるジョーカーには手を焼くだけ。
それはバットマンが「ヒーロー」であるからだ。ヒーローは決して間違ったことはしてはいけない。たとえ相手が悪人でも、「大量殺戮兵器がある」などと嘘を言って闇討ちにするようなマネはヒーローには許されないのだ。

映画では、バットマンに代表される「正義」は頼りないもので、ジョーカーに代表される「悪」は頑強なものとして描かれる。なぜなら「正義」は相対的なものに過ぎないうえ、いろんな民主主義的手続きを踏まなければならず、それをすべて無視して突き進む「悪」は絶対的なものであるから、結果的に悪の方が強くたくましく見えるのだ。それはアメリカが、アメリカ人が、西部開拓の時代から今も求め続ける強くたくましい「力」と重なっていく。

もちろん今やそれはアメリカに限ったことではなくて、何も迷わず即断即決、ワンフレーズポリティクス、わかりやすい言葉、断固たる決断と行動力こそがリーダーの条件などともてはやされるどこぞの国でも同じことだ。結局グローバリズムなんていうものは、自分の頭で考える思考力を代行するシステムのことに過ぎない。何が正しいかなんて個々人に判断されるとグローバリズムは成り立たない。

我が日本を代表するヒーロー、ウルトラマンはかつて、暴れ、街を壊す怪獣を「早く退治してくれ」と懇願する人々に、「勝手なことを言うな」と言い捨てた(帰ってきたウルトラマン「怪獣使いと少年」)。
この映画でアメリカンヒーローは、何のために戦うのか。
ジョーカーの策略に見事にはまり、恋人も友人も(事実上)失ったバットマンは、それでも自らの正義にすがりつき、怒りを奮い立たせる。
それに呼応するように正義を持つ少数の人々が立ち上がるのだが、その段階まで映画は徹底したシニカルなリアリズムで描いてきただけに、この展開を甘いとみるかどうかは意見が分かれると思う。
しかし、その後の結末も決してハリウッド的調和では終わらないから、これくらいのカタルシスは必要だったと私は思う。
だってこの映画、一応娯楽映画のはずなんだから(観客はもう忘れていると思うけど)。

映画が終わった後、観客の表情は一様に暗い。当たり前だ。何も救いが用意されてないんだから。
これほど後味の悪いヒーローものは、前述した「帰ってきたウルトラマン・怪獣使いと少年」以来だった。
まあ、何も知らずに「バットマンだから」って観にきたカップルは、気分を切り替えるのは大変だろうな。

しかし、アメリカではこの映画にわんさと人が詰めかけ、ボックスオフィスを塗り替えているというのだから、アメリカは「正義と悪」の二項対立がどれだけ無意味であるかに気づき始めたのだろうか。
それともついに狂い始めたのだろうか。

ラベル:ダークナイト
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2008年06月08日

人生の見つけ方っていわれても その2

さて、「最高の人生の見つけ方」の監督はロブ・ライナー。
80年代後半に「シュア・シング」「スタンド・バイ・ミー」「恋人たちの予感」「ミザリー」と立て続けにスマッシュ・ヒットを飛ばしました。
現在も「ストーリー・オブ・ラブ」「迷い婚〜すべての迷える女性たちへ」と、ラブストーリーに軸足を据えてなかなかいい映画を撮っています。
センチメンタルだけどさほど甘ったるくならず、洒落た味のする作品を撮らせたらうまい人です。
おっと、こういうタイプの監督と言えばもう一人いましたね。前回登場した「愛と追憶の日々」のジェームズ・L・ブルックスです。そう言えばどちらもTV出身。だからってわけではないでしょうが、ブルックス映画では「凄くイヤなヤツだけど実はいい人」路線まっしぐらのニコルソンと組んでみました(ちなみに「ストーリー・オブ・ラブ」ではブルース・ウィルスと組んでいるので、こういうタイプをうまく使う自信があるのかもしれません)。
共演にはモーガン・フリーマン。こちらは「インテリだけどいい人」をやらせたら右に出るものはいません。
この組み合わせで期待するなという方が無理。

さて、映画はニコルソンとフリーマンのそれぞれの日常を簡単に描いて入院シーンに流れ込みます。この導入部はテンポも良く、端的に二人のキャラを紹介するあたりはさすがライナー職人技です。
なんですが、入院してから延々と病室のシーンが続いて息苦しくなってきます。後半のカタルシスのための計算だとは思うし、ヨーロッパ映画ならよくある演出法ですが、娯楽第一のハリウッドでは珍しい。話の展開もうまく流れないし、よく試写の段階でOK出たなと思ったら製作もライナー自身でした。最近製作と監督を兼ねるのって多くなったけど、やっぱり甘くなっちゃって裏目に出ることが多いと思う。
それに、大金持ちのニコルソンと、平凡な市民のフリーマンを同じ病室にするための仕掛けがこなれてなくって、どうにも話に乗りにくいのは否めません。一言で言えばご都合主義。
後半は、死ぬまでにやりたいことを次々にやっていくわけですが、末期のガン患者だからといってそんなに体力がないことはないという事実は割り引いても、この二人元気すぎるし。とにかく話がちぐはぐなのがどうにも目立つんです。ジャスティン・ザッカムという脚本家は、これ以外にフィルモグラフィーがないのでよくわかりませんが、あまり評価できる本ではないと思います。
最後にちょっとしたどんでん返し(というほどでもないけれど)が用意されていますが、果たして必要があったのかというと……。

結局「最高の人生の見つけ方」という割には(原題は「棺桶リスト」)、どうにも冗漫な印象なんですな。
金に飽かせていろんな夢を実現するというのは、まあ、おとぎ話で、その先にあるものをつかんでいく、という展開のはずなんですが、金に飽かせるシーンがこれまたえらく長くて(予算かかったところって、切りにくいんだよな。だから監督と製作を兼ねるのは……(略))、肝心の次のステップがばたばた片付けられちゃってる。
これだと「結局金じゃん、最高の人生ってさ」なんて誤解されかねない映画になってる気もするんですが。

ただ、二人の演技は十分に見る価値はありますし、ニコルソンの秘書役のショーン・ヘイズが拾いものです。これからの有望株かも。


posted by 紅灯 at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月04日

人生の見つけ方っていわれても その1

世の中不公平なもので、普段冷たい人とか悪いヤツがちょっといいことしたりすると、「ホントはいいヤツじゃん」なんて急に株が上がったりするものです。
4月末に小田和正のコンサートに行ったんですが、途中、小田和正がステージから一番遠い客席を指さして、「ねえ、そこのほとんど霞んじゃってる席の人たち、そこも値段同じなの?」と声をかけていました。
コンサートが後半に入ると、小田和正、アリーナに縦横にめぐらせていた花道から飛び降り、その一番奥の席の方へ客席をかき分けるようにしてずんずん上がっていきます。もう周囲はパニック状態。ガードマンだかスタッフが一人、小田和正を守るようにくっついていますが、小田さんそんなのお構いなし。客がさわろうが何しようが歌いながらずんずん進む。終いにはモニタービジョンのカメラもアップでは追えなくなって、なんだかラグビーのモールが動いてるぞみたいな画面に。
ようやく花道に戻ってきた小田さん、「歌もろくに歌えない状態になっちゃってごめん。でもやっぱり霞んじゃってる人にも楽しんで欲しいし」みたいなMC。万雷の拍手。いやー、意外といい人だよね小田和正って、実はこんなにいい人だったんだムード全開。
年末恒例のTBSの小田和正特番で、かつていくら呼びかけてもだーれもミュージシャン仲間が来てくれなくてブンむくれてた小田さん、改心したのでしょうか。去年の番組では、さだまさしが小田和正のわがままぶりをさんざんからかってましたけれども。でも最近、「みんなに感謝」みたいな似合わない歌詞書いてるしなあ、なんて。
あんまり小田和正ネタをやってると、熱狂的なファンから激烈なお叱りが来そうなのでこの辺にしておきますが、要するに普段そう言うイメージじゃない人がちょっといいことすると、凄く得、と言うことであります。

その西の代表といえば、この人以外にいませんな。
その名はジャック・ニコルソン。
「カッコーの巣の上で」とか「シャイニング」とか「チャイナタウン」の頃は、普通にうまい俳優(なんだそれは)だったんですが、その後どんどんどんどん悪相になってくる。ほんっとにこの人、イヤなヤツなんだろうなって思わせるくらいにイヤな顔になってくる。
で、ついに掘り当てた金鉱が「愛と追憶の日々」。いい映画でしたね、これ。邦題はひどいけど、未見の方は是非。
ここで演じたのが、主人公の隣に住む、酒浸りで自堕落でスケベで傲慢な元宇宙飛行士。でも実はシャイでいいやつ。そんな極端で都合のいいキャラ、リアルに演じられるヤツがいるなら連れてきてみろ!って連れてきたのがニコルソンなんでしょうな。
当然のようにオスカーを手にしました。
この後もどんどんどんどん悪相になっていって「イーストウィックの魔女たち」では本当に悪魔になっちゃいましたが(違和感なかったなあ。あれに比べれば「エンゼル・ハート」のデニーロ悪魔なんて上品すぎですな)、再び「愛と追憶の日々」のジェームズ・L・ブルックスと組んだ「恋愛小説家」が大ヒット。
その後は、定年退職した親父の哀愁を描いた(って、ニコルソンが定年退職サラリーマン?まさか!)「アバウト・シュミット」、「恋愛適齢期」と立て続けに「やなヤツだけど実はいい人」を演じ続けてきました。
で、今回は「最高の人生の見つけ方」。
見てきました。

でも長くなったので続きます。

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2008年05月27日

追悼・シドニー・ポラック

また一人、好きだった映画監督が亡くなってしまった。
シドニー・ポラック。職人監督と言っていいと思うし、本人もうれしいかもしれない。

サスペンス、ラブロマンス、ミステリ、アクション、国際陰謀もの、とにかくまあ節操なく何でも撮った。
で、どれも楽しめる娯楽作ばかり。ハリウッド映画はこうでなきゃっていう「顔」のような人だった。
監督作で言えば、ダスティン・ホフマンが女装して話題になった「トッツィー」、バーブラ・ストライザンドとロバート・レッドフォードという誰も考えないだろうこの組み合わせでラブロマンスはっていうのに大ヒットした「追憶」、地味なのに面白いCIAもの「コンドル」、アル・パチーノのメロドラマ「ボビー・ディアフィールド」、ポール・ニューマンの社会派ドラマ「スクープ」、アカデミー賞を総なめにしたメロドラマの王道「愛と哀しみの果て」、トム・クルーズのサスペンス「ザ・ファーム法律事務所」など、こうして挙げると旬の俳優を実にうまく使いこなしているのが分かる。

この嗅覚の良さはプロデューサーとしても存分に発揮され、ミシェル・ファイファーの魅力全開「恋のゆくえ・ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」、マイケル・J・フォックスのナイーブさがうまく生かされた(ヒットはしなかったけど、これはフォックスの代表作と言っていいと思う)「再会の街」、ハリソン・フォードのイメージをスター・ウオーズから「演技派」に塗り替えた「推定無罪」と、いとまがない。
本当にハリウッドの持つ「良さ」「明るさ」「屈託のなさ」を体現した監督だった。

で、ここでは余り注目されそうにない1作を取り上げたい。
初期の一本「ひとりぼっちの青春」。
賞金のために過酷なダンス・マラソンに出た一組のカップル(ジェーン・フォンダとマイケル・サラザン)が、過酷な試練を乗り越えて……というと、今ならいかにもアメリカ的なハッピーエンドを想像しそうだが、そうはならない。この救いようのないラストはハリウッド映画史のなかでも特筆に値する。
1969年という製作年ならではであるけれど、狂気と悲壮感と絶望に充ち満ちた映画だ。格差社会は今に始まった問題ではないし、希望と絶望は表裏一体。アメリカン・ニューシネマに乗っかったと言えばいかにもポラックらしいと思われるかもしれないが、しかし、常にポラックの映画にあふれる優しい視線は、この映画が出発点となったことを考えると、逆にわかりやすいのではないかと思う。

(映画のタイトル表記ミスを手直ししました。ご指摘ありがとうございました。タイトルはちゃんと確認しなきゃね。5/28)
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2008年03月12日

明日への遺言(続)

今回は映画の内容・結末に触れています。未見の方はご注意を)。

映画は、空襲の歴史についてドキュメンタリー・フィルムから始まります。
かなり長いうえに、竹野内豊のナレーションがあんまりと言えばあんまりな出来で、よく耳に残らない。あのたどたどしさから実直な雰囲気を生み出したかったんだろうなと思うんですが、それにしてもたどたどしすぎる。ニュースアナウンサーが言うところの「原稿の意味、わかって読んでる?」ってやつです。
ですが、要するに戦略爆撃について問題提起したいんだなということはまあわかります。

そして紹介される「事件」。
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ラベル:明日への遺言
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2008年03月09日

追悼・広川太一郎さん

本来なら「明日への遺言」の続きなんですが、広川太一郎さんの訃報が届きました。
まだ68歳。がんだったそうです。

広川太一郎さんといえば、ロバート・レッドフォード、ロジャー・ムーアなど正当派2枚目をこなしつつ、マシンガントークのギャグ満載コメディも得意とする方でした。
ただ、俳優出身の声優にはこうしたケースは珍しくありません。メジャーなところでは山田康雄もそうですし、「ヤマト」の古代進や「ポワロ」のヘイスティングスなど2枚目キャストの印象が強い富山敬も、「ちびまる子ちゃん」の友蔵など思いがけない役柄で登場して楽しませてくれました(そう言えば富山敬もガンでの急逝でしたな)。
こうしたことは、TVの洋画劇場の初期に俳優としても一流の舞台役者たちが多数協力したからこそのことで、彼らのサービス精神あふれるエンターティナーぶりが日本の「吹き替え映画」を世界に例のないジャンルに育て上げてくれました。
その中でも広川太一郎の特異なキャラクターぶりは際だっていました。
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ラベル:広川太一郎
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2008年03月07日

明日への遺言


映画好きが高じて、2年ほど前、自宅に110インチのホームシアターを作りました。
といっても専用の映画ルームなんかではなくて、サンルームリビングみたいな少し広いスペースを利用してプロジェクターとスクリーンを置いただけなんですが。
そういう場所なので昼は当然観られません。夜だけ。
その程度でも、最近は100インチくらいの試写室みたいなシネコンもありますから、結構満足してみているんですが、弊害が一つ。

映画館にあまり行かなくなった。

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ラベル:明日への遺言
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2008年02月24日

匂いとセックス、そして映画(続)

今回は映画の内容に詳しく触れています。映画を観る前に内容を知りたくないという方はご注意を。

まず映画は、主人公が死刑判決を受けるところから始まります。
裁判所の外は大群衆が取り囲み、主人公を死刑にしろ!ぶち殺せ!と口々にののしっています。
一体何があったのか──。
有り体に言って、こうしたオープニングはよくあります。
ただ、目を引くのはそのデティールです。群衆シーンも裁判所のセットも実によくできている。かなりの部分をCGで補っているようなんですが、一目見た印象では細部の詰め方、たとえば石が濡れた感じなど非常にリアルです。
これはこの後さらに効果を発揮します。
映画は、主人公がこの世に生を受けたエピソードを描写します。
18世紀、世界でもっとも悪臭漂う都市と言われたパリの、さらに悪臭の詰め込まれた場所、腐りかけのタラなんぞが平然と並んでいる魚市場。続きを読む
ラベル:パフューム
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2008年02月20日

匂いとセックス、そして映画

あまり「日本人は○○だけど外国人は××だからね」なんていう単純化しすぎた言い方は好まないのですが、それでもそう言わざるを得ないものの一つに「体臭」があります。

「日本人は体臭を気にするけど、外国人はむしろ好きだよね」。

まあ、日本人の体臭嫌い、体臭を気にする傾向は今更説明するまでもないでしょう。
試しにグーグルで「体臭」を検索してみると、ズラリと並んでます。
「体臭にもう悩まない」「体臭予防」「40代からの体臭対策」「体臭ケアのポイント」……。
とても全部見ることはできませんが、おそらく447万件のヒットのほとんどはこうしたもので、体臭を肯定したものは少なそうだと推測できます。

では外国人の場合はどうか。
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posted by 紅灯 at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月14日

追悼 ロイ・シャイダー

本来なら「男の自画像」の続きのはずなんですが、悲しい知らせが飛び込んできました。
ロイ・シャイダー氏が死去したというニュースです。
予定を変更して、この個性派俳優の追悼を少しばかり。
たぶん市川昆監督の死去を悼む記事やブログの方が圧倒的でしょうから。

死去を知らせる新聞記事はどれも小さな扱いでした。
まあ当然です。90年代以降は特にこれという主演作もなく、アメリカ本国はともかく、日本ではスターだったとは言えないでしょう。
演技派ではありましたが、名優とまでは行かない。アクションもそつなくこなしましたが、全く持ってアクションスターではない。では中途半端な俳優だったか?

いえいえ、この人ほど「存在感のある」映画俳優はなかなかいないでしょう。
「存在感のある」と「」をつけたのは、ただ存在感があるだけならいっぱいいるからです。要するに何らかの目立つ条件を備えていれば。スタローンだってシュワルツェネッガーだって勝新太郎だってトム・クルーズだって存在感はあるわけです。
でも、ロイ・シャイダーという人は、目立つ条件を何一つ持っていないのに存在感を振りまくことが出来た俳優でした。
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2008年02月11日

くさみのない役者

以前お知らせした沖島勲監督の最新作「一万年、後・・・・。」の上映会&トークライブが無事終わりました。
心配した収支もなんとか黒字に終わり、めでたしであります。
沖島さんの体調もはじめは心配事の一つでしたが、むしろ大学で教えていた頃より元気になった感もあります。まあ、監督自身を投影した映画の主人公が糖尿病で死んだという設定なので、周囲が余計心配したところが大きいんですが(「新作は遺書じゃないか」なんて声が上がったりして)。
上映会の後は、某アングラ飲み屋で打ち上げ。沖島さんの教え子もわらわらやってきて、一時は20人くらいしか入らない店に20代から70代まで30人以上がおしくらする大盛況ぶりでした。

トークライブも楽しかったのですが、やはり酒が入ると熱の入り方が違います。
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