少々前の話になるが、盆休みに帰省して暇を持て余し、何を見たいということもなく映画館へ出かけた。シネコンなので拾いものがあるわけでもなく、おまけにちょうどこの日の夜には花火大会も予定されていたので、花火の前に「ポニョ」でも観ようかってなカップルでチケット売り場はごった返していた。
シネコンでカップルで花火大会である。一人で映画を楽しむのに最高のシチュエーションとは言い難い。参ったなと思いつつ上映リストを見上げると目を引くタイトルがあった。
「ダークナイト」
我が偏愛するクリストファー・ノーランの新作だ。とはいえこれは「バットマン」ノーランシリーズの第2作目で、前作は観ていない。映画では食わず嫌いをしない私としては珍しく、アメコミの映画化が苦手である。実をいうとスパイダーマンもハルクも観ていない。良い評判は聞くのだが。
ただこの「ダークナイト」はCMでちらりと見て印象に残っていた。最近のアメリカ映画でTVCMが印象に残ること自体珍しい。それに「ダークナイト」というタイトルのみで「バットマン」がまるで強調されていないのにも好感を持っていた。かなりノーランの作家性が出ているフィルムのような気がしたのだ。
しかし一方でイヤな話も耳にしていた。全米公開の第1週のボックスオフィスが160億円というとてつもない新記録を打ち立てたというのだ。この手の記録を謳われる映画にまあロクなものがないというのが私の偏見だ。
とはいえ、ヒマだし一人でポニョ観てもしかたない。ちょうど時間もタイミングが良かったので躊躇なくチケットを買った。
驚いたことに客席はほぼ満席である。バットマンシリーズなのだから驚くこともないのかもしれないが、何となく違和感がある。なぜ違和感が、と思ったら、カップルに対抗するように一人の客が目に付くのだ。それも女性の一人客も割といる。何となく期待が高まる。
映画はバットマンの偽物が現れるところから始まる。前作を観ていない私には少々理解できないシーンもあるにはあったが、すぐに映画の設定は飲み込めた。
いきなり登場したバットマンはコスチュームがマッチョで、なんとなく桃太郎侍を連想させたが、バットマンスーツを脱ぐとクリスチャン・ベイル。かなりギャップがある。
ベイルはノーランの前作「プレステージ」での人を食ったような怪演がまだ記憶に新しいせいか、正義のヒーローと言うより、「こいつまたなんかやらかすんじゃねーか」みたいな雰囲気を漂わせている。
バットマンとタッグを組む熱血正義漢の地方検事には、二枚目過ぎて怪しすぎるアーロン・エッカート。
でもってバットマンの忠実なる執事にはなんとマイケル・ケイン。正体不明の怪しげなオッサンを演じさせたらこれほどうまいヤツはいないという、ほとんどハリウッドの寺田農だ。バットマンの執事がマイケル・ケインなんだから、「ひょっとしたらバットマンは実は悪いヤツというオチなのかもしれない」と裏の裏を読もうとする映画ファンは決して少数派ではないと思う。
でもって、警察内部の裏切りに頭を悩ます正義の刑事がゲイリー・オールドマン。って、おい、裏切り者は普通オールドマンだろう。
こんなキャスティングだから落ち着かないというか、善悪安心して観られないこと甚だしい。
この映画、悪役ジョーカーを見事に演じたヒース・レジャーのキャスティングに注目が集まっているが、他のキャスティングにもこれだけあからさまな狙いが込められているからこそレジャーの異常なジョーカーぶりが映画の中でしっくり来たと思う。例えば、ジョーカーと言えば悪趣味な化粧というかピエロのメイクがバットマンより有名だけれども、この映画ではジョーカー自身の汗で滲んだり剥げかけたりしている。はっきり言って薄汚い。こんなジョーカーイヤだ!という人もいるだろうが、記号としての(マンガのキャラクターとしての)「ジョーカー」を否定しているだけにすぎない。
なのに、「バットマン」は徹底して「バットマン」として描かれている。
今時こんなヒーローの造型は時代遅れだろうっていうくらい、ロコツに「バットマン」はヒーロー。
なにしろバットマンはその事に悩むくらいなんだから。
そう、これこそがノーランのたくらみ。
悪に再び汚されつつある街の情況を冷静に分析しようとするバットマンは、自らの行動が正しいのか悩み続ける。その間にもジョーカーは着々と手を打ち、行動を起こし、悪を広めていく。観ている方はイライラさせられる描写の連続だ。ついつい誰もが思うだろう。
「悩んでいるヒマがあったら、あいつを殺せ!」と。
実際、この映画では、普通の市民たちが不安や怒りに駆られ、ジョーカーの思うつぼと知りつつも、自らや家族を守るためになんの恨みもない同じ市民を殺す、または殺そうとするシーンをイヤと言うほど見せつけられる。「やらなければこっちがやられる」という「テロとの対決」の真実が徹底して卑俗に暴かれる。その卑俗さをメイクの流れた汚らしいジョーカーが象徴する。
しかしそれに対してバットマンは何もできない。暴れるジョーカーに便乗して甘い汁を吸おうとする中国マフィアのマネーロンダリングは摘発するが、本筋であるジョーカーには手を焼くだけ。
それはバットマンが「ヒーロー」であるからだ。ヒーローは決して間違ったことはしてはいけない。たとえ相手が悪人でも、「大量殺戮兵器がある」などと嘘を言って闇討ちにするようなマネはヒーローには許されないのだ。
映画では、バットマンに代表される「正義」は頼りないもので、ジョーカーに代表される「悪」は頑強なものとして描かれる。なぜなら「正義」は相対的なものに過ぎないうえ、いろんな民主主義的手続きを踏まなければならず、それをすべて無視して突き進む「悪」は絶対的なものであるから、結果的に悪の方が強くたくましく見えるのだ。それはアメリカが、アメリカ人が、西部開拓の時代から今も求め続ける強くたくましい「力」と重なっていく。
もちろん今やそれはアメリカに限ったことではなくて、何も迷わず即断即決、ワンフレーズポリティクス、わかりやすい言葉、断固たる決断と行動力こそがリーダーの条件などともてはやされるどこぞの国でも同じことだ。結局グローバリズムなんていうものは、自分の頭で考える思考力を代行するシステムのことに過ぎない。何が正しいかなんて個々人に判断されるとグローバリズムは成り立たない。
我が日本を代表するヒーロー、ウルトラマンはかつて、暴れ、街を壊す怪獣を「早く退治してくれ」と懇願する人々に、「勝手なことを言うな」と言い捨てた(帰ってきたウルトラマン「怪獣使いと少年」)。
この映画でアメリカンヒーローは、何のために戦うのか。
ジョーカーの策略に見事にはまり、恋人も友人も(事実上)失ったバットマンは、それでも自らの正義にすがりつき、怒りを奮い立たせる。
それに呼応するように正義を持つ少数の人々が立ち上がるのだが、その段階まで映画は徹底したシニカルなリアリズムで描いてきただけに、この展開を甘いとみるかどうかは意見が分かれると思う。
しかし、その後の結末も決してハリウッド的調和では終わらないから、これくらいのカタルシスは必要だったと私は思う。
だってこの映画、一応娯楽映画のはずなんだから(観客はもう忘れていると思うけど)。
映画が終わった後、観客の表情は一様に暗い。当たり前だ。何も救いが用意されてないんだから。
これほど後味の悪いヒーローものは、前述した「帰ってきたウルトラマン・怪獣使いと少年」以来だった。
まあ、何も知らずに「バットマンだから」って観にきたカップルは、気分を切り替えるのは大変だろうな。
しかし、アメリカではこの映画にわんさと人が詰めかけ、ボックスオフィスを塗り替えているというのだから、アメリカは「正義と悪」の二項対立がどれだけ無意味であるかに気づき始めたのだろうか。
それともついに狂い始めたのだろうか。