2010年03月06日

ガリ版の日々

NHKの番組で今時のガリ版事情を取り上げていました。
って、ガリ版ご存じでしょうか?
こういうものなんです・・・とネットにすぐ頼る態度はいかがなものかと思いますが、しかし全然知らない人にガリ版を一から説明するのは難しいぞ。やってみよう。
まず、ロウを塗ったごく薄い油紙に字を書く。この場合「書く」というのは「鉄筆」という先が針金状になった器具で字を彫り込んでいく。原稿が完成したらこれを木製のフレームにセットして、下に紙を置く。そこへインクを流し込みローラーでごろごろやるとロウを削った部分だけインクが転写され、刷り上がるというわけ。

小学生でもその仕組みがよく理解できるというまさにアナログ印刷の極北でありまして、実際私達が小中学校の頃には学校で配られるプリント・テストというのはほぼすべてこれでありました(そういえば小学校の低学年の頃には青写真というのもあったぞ)。先生の字の癖がそのまま出てしまうので、○○先生のプリントは読みにくい!などと言われ、今なら「ウチのクラスは先生の悪筆のおかげで勉強が遅れる!」などと親が学校に怒鳴り込んでくるのではないかというような実に昭和らしいのんびりした印刷装置でもありました。
何しろパソコンのプリンターどころか、コピー機だってまったく普及していない時代ですからね。

このガリ版が欲しかったんです。
中学生の頃、私は友人と2人で新聞を作っていました。新聞といっても新聞部ではなく、2人でルーズリーフに書いた回覧新聞。同じ電車で遠距離通学していた2人が暇つぶしに学校でのことなどをおもしろおかしく書いた新聞です。主に僕が原稿を、彼はデザインや絵やマンガを担当していました。最初はその電車を利用する同級生の間だけでまわし読みされていたのですが、そのうち文字通り口コミで広がり、ついには学校中で回覧され、一週間後に戻ってくる頃にはぼろぼろになっているという状況でありました。

人気が出てくると作り手も張り切るのはいつの世も同じ。
高校受験を控えた中学3年の冬休み、私達は相談しました。中学生活もあと数ヶ月。ここでひとつ「正月特別版」を出そうじゃないか。記念になるようにいつもの回覧じゃなく、ガリ版刷りにしないか?
しかし部活でもなくアングラでやってる新聞に学校のガリ版を貸してくれなんて言えません。だいたい受験直前の12月にそんなことやってるってばれたら怒られる。
文房具屋をのぞいて見ましたが、高い。とても中学生の小遣いで買えるものじゃありません。諦めかけたその時、ガリ版に使うロウ紙が目に入りました。1枚数円。安いじゃないか。鉄筆も数百円。高いのはガリ版本体だけ。
そこでひらめきました。なんと言っても小学生でも理解できるガリ版の仕組みですからね。
ガリ版を作ればいいんだと。

とはいえ、一応は受験生の身。材木買ってきてノコギリで…なんて派手なことはさすがにできません。ただでも受験前にこの子たちはなにやってるのと親から朝に晩に説教くらってるのに、いきなり大工の真似事など始めたら進路を考え直したのかと思われかねません。
原理だけでいえばロウ紙とインク、それに紙さえあればいいわけです。ロウ紙を張るフレームはなんでもいいんじゃないか。
というわけでタンスの上で眠っているもらい物のお菓子の箱を引っ張り出し、フタをくりぬきました。これにロウ紙をセロテープで張る。残った箱をひっくり返し紙を載せる台にします。おお、簡単に(そしてタダで)ガリ版の完成です。
早速試し刷り。
インクを載せてローラーをかけると、ちゃんと印刷できるじゃないですか。
おお、やった!と早速2枚目。その途端、ぐちゃぐちゃとイヤな音が。見るとロウ紙がローラーに巻き付いて惨憺たる有様。
インクは油性なのでセロテープと相性が悪く、すぐに剥がれてしまったわけです。
一枚印刷するのにロウ紙1枚彫っていたのでは何の意味もないことはさすがに頭の悪い中学生でもわかります。試行錯誤の末ビニールテープで固定した後厚紙を置いてホチキスで留めるということでクリア。
ところが今度は紙のフレームでは耐久性がなく、5,6回も刷ると歪んでインクが隙間から入り込み、紙が真っ黒になってしまいます。なんとか補強を終える頃には手も顔もそこいらもインクでべとべと。
ようやく6頁ほどの新聞100部が完成した頃には年が明けていたという次第。

受験の方はどうなったかというと、めでたく2人とも第一志望の私立は落ち、揃って同じ公立高校に進学しました。受験日の前夜も2人で新聞作ってましたから当然と言えば当然の結果です。それから数十年が経ち、私は文章を書くことが生業に、手先が器用だった彼は医者になりましたから、時というのは流れるように流れるものです。

そして情報を発信するという手段は、今や飛躍的な発展を遂げました。
ただ、ホームページやブログやツイッターが出る度にその仕組みや使い方に熱中する自分に気づくと、ガリ版を何とか手作りできないか夢中になっていたあの頃から少しも成長していないのではないかと思うのです。


posted by 紅灯 at 17:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月10日

暴発ツイッター

昨日、ツイッターで2つのびっくりする体験をしました。
1つはなかなか面白い体験で、もう1つは大失敗。
ツイッターをはじめて3ヶ月。何事もはじめて3ヶ月くらいで油断して失敗すると言いますが、まさにその通り。

ではまず面白かったことから。
商売柄すべての新聞に目を通します。朝一番には政経社面の見出しをざっと見て抜かれていないか確認(本当は抜かれていれば明け方に担当者から電話が架かってくるんだけど、まあ念のため)、じっくり読むのは昼飯の時。昨日も昼を食べながら読売新聞の人生相談を見ていたら目が釘付けになりました。あ、読売の人生相談は面白いですよ。質問がエキセントリックなことが多いのもあるけれど、何より回答が気が利いていて。かなり無理難題な質問に「いったいどう答えるんだろう」と思って読むと「おお、こう来たか」ってな感じで、これぞ文章芸の世界。

そして昨日はこの回答が素晴らしかった。「彼氏が二股かけてる。別れたいけど別れられない」という、まあよくある、けれども回答が難しいこの質問に、作家の高橋秀実さんが回答。これが見事なんだなあ。リンク張っておきますが、新聞記事なのでそのうち消えると思うので、引用しておきます。
まず冒頭、「あなたもお考えになったように、その彼とは即刻別れてください。」とバッサリ。
畳みかけるように続きます。「別れることにためらいがあるなら『捨てる』と思ってください。そう、ゴミのように。ゴミというのは収集日が決まっていますから、例えば今週の木曜日と決めたら、その日に捨てる。リサイクルに回すのではなくきっぱりと捨ててしまうのです。」
そして「もしかするとあなたは彼女がいるから彼のことがあきらめられないのかもしれません。その彼女が彼の魅力を保証しており、それゆえ価値があると思っているのではないでしょうか。家電にたとえるなら、もはや不用なのに保証書だけ有効になっているようなもの。有効期限が切れても、また別の彼女をつくることは間違いないので、この際保証書もろとも処分してください。」と見事な比喩。トドメには「ゴミがなくなってもさびしくなんかありません。部屋も心も空きスペースができれば、新しいモノに目が向くはず。どうか恋心を大切にしてください。」。
どうですか、この潔さ、格好良さ。

「これは誰かに読ませたいなあ」と思い、そう、ツイッターがあるじゃんと記事のアドレスを調べ、ツイート。
で、昼飯の残りを片付けてコーヒーでも飲んで、「どうなったかな、誰か見てくれたかな」と見てみると。
RT、RT、RT。ものすごい数のRTがついてるではないですか。
あ、説明しておきますと、RTというのはツイートの返信方法の一種で、通常の返信は1対1が基本(+両者をフォローしている人も見ることができる)なのに対し、RTを付けると、返信をした人をフォローしている人すべてが見ることができます。つまりこの場合、Aさんが私の最初のツイートをRTすると、私をフォローしていないAさんのフォロワーすべてが私のツイートを見ることができるわけです。
15分くらいの間に何十というRTが返ってきました。「いいですなあ」「実にいい」「見事」などというコメントとともに。
もちろんRTせずに読んでいる人はその何十倍、何百倍いますし、フォロワーによっては何千・何万倍ということにもなるわけです。
こんなにRTを返されたのは初めてで、ビックリするとともにこれはなかなか楽しいなあと思ったわけです。

さて、その夜。
深夜に帰宅してPCに向かい、原稿など書きつつツイッターも起動。この最近の癖で原稿のスピードが著しく落ちている気もするのですが、まあ、そこはそこ。特に深夜帯に入ると、最近は漫画家のいしかわじゅんさんなどのツイートが、まるでショウタイムとでも言うべき活況を呈すので、誘惑に勝てません。昔のオールナイトニッポンの投書を出したり読まれたりというのをリアルタイムでやってるような感覚とでも言えば近いでしょうか。ディスプレイの片隅に次々浮かぶいろんな方のツイートをちらちら眺めつつ、原稿書きつつ、さらにDMで某ライターさんなどとやりとりしておりました(実はさらにワンセグのTVの音声も流れてたりする。もうこれは原稿書いてるとは言えない)。

と、新たなツイートが。「……あ、そうか。まあぐりとぐらも犬だし。」
おお、いしかわさんご本人だ。えっ、ぐりとぐらって犬だったの?。
と反応した私は、そのまま反射的にキーボードを叩いたのです。
「え、ネズミだと思ってました。我が人生に大きな間違いが RT @ishikawajun: あ、そうか。まあぐりとぐらも犬だし。」
これが午前1時3分。
そのまま原稿など書いていると、すぐに反応が。いしかわさんではありません。私のツイートをRTした方です。
「えっ!!ネズミじゃないの? RT @koutouwinter: え、ネズミだと思ってました。我が人生に大きな間違いが RT …」
RTがRTを呼ぶ。
「ネズミじゃないの?!RT @*****: えっ!!ネズミじゃないの? RT @koutouwinter: え、ネズミだと思ってました。」
私と言えば、「あ、反応あるなあ、今日の昼みたい」とまだのんびり。
と、ここで当のいしかわさんご本人が登場。
「そうじゃなくて、ぐりとぐらという名前をつけられた2匹の犬が居るって話。RT …」
そうです。私はいしかわさんの前のツイートをよく読んでおらず、ふっと浮かんだツイートだけ見て勘違いしちゃったわけです。
「やばいっ」。とにかく慌てた私は、可能な限りのスピードでこのいしかわさんのツイートをRT。
「大変失礼しました。そそっかしいRT。石川さんにも、瞬く間に広がったRTの皆様にも…RT@ishikawajun」

この時点で午前1時8分。最初の勘違いツイートから5分しか経ってません。
ところが、遅かった。完全に手遅れ。
私をRTした方が非常に多くのフォロワーを抱える方ということも手伝って、その後いしかわさんのもとには山のような問い合わせRTが届いたのでした。もちろんみんな「ぐりとぐらって犬だったの?」一色。
その度にいしかわさんは「途中から話を聞くな−」「前のTLを読め!」とそれまでのTL(タイムライン)の雰囲気を壊さない(マンガ夜話のあのぶっきら優しい)調子で応対され、お詫びのツイートを入れた私にも「面白かったー」「一瞬だったね。Twitterの新たな一面を見たよ。」と優しく声をかけて頂きました。

ツイッターに慣れてきたところに昼間RTで面白い経験して、調子に乗っていた私の責任が第一なのは言うまでもありません。
が、いしかわさんも書かれたように、「これがツイッターなんだなあ」とつくづく感じました。特に普段他愛のないことつぶやいてたりするとそれに慣れてしまって、ツイッターのタイムラインが「日常」化してしまい、時間差なく伝播するネットの怖さをふと忘れてたりする。
今回はいしかわさんの優しさに助けられましたが、私の場合、仕事関係でもツイッター使っていますので2度3度と繰り返すわけにはいきません。暴発騒ぎはいい教訓でした。

そして何より、本当にいしかわじゅんさんにはご迷惑をおかけしました。


タグ:twitter
posted by 紅灯 at 21:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月22日

あれから10年

徳島県の吉野川第十堰をめぐる住民投票から、明日で十年になるのだそうだ。
もうそんなに経つのか、早いなあというのが実感だ。
月並みな言い方だけど、あの日のことはつい昨日みたいに思い出せる。

吉野川の第十堰というのは、江戸時代に作られた石積みの堰だ。流れを完全に止めず、大雨の時には自然に流量が調節されて洪水を防ぎ、普段は多くの生き物が生息するという、先人の知恵が生かされた堰だ(ちなみに「第十」というのは地名です。十番目の堰という意味ではありませんよ)。
二百年以上経っても生き続けているこの堰を、国が老朽化と洪水対策を理由に取り壊し、下流に1000億円をかけて(出た)巨大な可動式の堰の建設するという計画を発表。
推進する自民党と建設・土木業者、これに反発する市民グループというわかりやすい構図を経て、1998年、市民グループは住民投票の実施を求め署名を呼びかける。その結果、徳島市の有権者の半数近いの署名が集まり、市議会に住民投票条例の制定を求めた。
ところが建設推進派が多数を占める市議会は条例案を否決。
このため市民グループは市議会議員選挙に独自候補を擁立し3人が当選、その結果、定員40人の市議会のうち住民投票賛成派が22人を占め勢力が逆転したのだ。
そして6月、日本で初めて国の河川事業を問う住民投票条例が成立した。

ところが敵もさるもの。この条例案には仕掛けがしてあったんですな。
なんと、「投票率が50パーセントに達しなければ無効とする」という条項があったのであります。投票率が50パーセントに満たなければ開票すらされないという異常な条件に対抗するため、市民グループはボランティアの応援を頼み、有権者のおよそ半数の家にチラシを配ったり、辻立ちを繰り返した。なんと言っても、直前の市長選挙の投票率は30パーセント台だったのだ。

一方可動堰推進派は、組織力を生かして建設を求める署名を全県下で集め(吉野川と関係ないところも含め)建設大臣に提出する一方、「住民投票に行かないよう」呼びかける。この動きを市の選挙管理委員会はたしなめるどころか「投票を強制するようなものでもないので、有権者の判断に任せたい」と耳を疑うような談話を発表した。

そして迎えた1月23日の投票日(そういえば『1,2,3で投票に行こう!』って呼びかけてたなあ)。
よく晴れて寒い日曜の朝、街は静かだった。
静かだったけど、街中が言いしれぬ高揚感、連帯感に包まれていたのをよく憶えている。
一人また一人と投票所へ足を運ぶ人たち。
「自分達の一票が確実にこの街の未来を決めるんだ」という責任感と誇りでつながっていた。
「50パーセントを超えなければ開票さえしない」という縛りが、かえって徳島の人々の誇りを目覚めさせたのではないか、そう思いましたね。
そうして住民投票の結果よりまず、投票率は50パーセントを超えるのか、投票は成立するのか、徳島市民は固唾を呑んで見守った。
午後7時すぎ、選管は投票率が50パーセントを超えたことを発表、投票が成立した。
そして開票。
その結果──
可動堰建設に反対が10万2700票。賛成は9300票。
圧倒的な結果が示され、国の河川行政にNOが突きつけられた。

この徳島のケースが、住民投票で行政を監視するというシステムの先鞭を付けたとされている。
やはりそれは、この徳島のケースが、政党やイデオロギー色がほとんど無い純粋な市民運動から出発し、最後までそれを貫いたという点が大きい。姫野雅義さんという沈着冷静で無色、そして全くぶれない強いリーダーシップを持った方がいたということもある。
もちろん批判もあった。「なんでもかんでも住民投票というのは間接民主主義を否定するものだ」という批判は十分に理解できる。
当時の建設相は「民主主義の誤作動だ」と発言した(このとき「誤作動しているのは建設相だ」とやり返したのは菅直人氏である)。

しかし、投票箱を開封すらせず圧殺しようとした現実を前にして、民主主義を語る資格はいったい誰にあるだろう。
自分の一票で何かを変えられる。
現在に通じる小さな芽が、この時徳島で生まれていたのかもしれない。

私が最後に第十堰を見てから7年くらい経つ。
堰をなめらかに越えてゆく川の流れにたゆたう陽光。耳に心地よいせせらぎの音と波に遊ぶ小鳥の群れ。
あの素晴らしい景色は今も健在なのだと思うと自然に笑みが浮かぶ。
徳島の人々に感謝。



タグ:第十堰
posted by 紅灯 at 18:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月29日

リニューアル!

ごらんの通り、ブログをリニューアルしました。
って、twitter上の私のつぶやき(ツイート)を入れただけなんだけど。
そうするとこれまでのスペースでは足りないので、両袖タイプのデザインになりました。
しかし、こうなるとこのブログ、字ばっかりだなあ。あんまり見づらいようなら様子を見て元に戻そう。

なぜtwitterのつぶやきなんかを入れたかというと、理由は三つ。
一つは、ツイッターのつぶやきは、古いものからどんどん読めなくなっていくんです。つぶやいた本人も、数日もたてば何つぶやいたかなんて憶えてない。なので、せっかくブログもつけてることだし、備忘録代わりにいいかな、という訳です。

もう一つは、これが理由としては大きいんですが、twitterとはいったいどんなものなのか、関心がある人に知って貰うのにちょうどいいんじゃないかということ。
これは私自身がそうだったんですが、「twitterってどんなものだ?」と思ってアカウント取っても、最初はどうやっていくのかよくわからない。フォローもフォロワーもいないところでポツンとつぶやいてもただ寂しいだけ。大海原に一人ぼっち。堀江謙一さんですな(たとえが古過ぎ)。
なのでこれからどうなるのか、何が楽しいのかまるでわからない。他人を検索しようにも、まだそんなに広まっているわけでもないし、ブログと同じように匿名でやっている人が多いから,知り合いを探すのは結構大変。
そういう「ちょっと興味はあるけどロンリネス」という方に参考にでもなれば、ということであります。

もう一つはネット上の情報共有。
まだまだ私はtwitter初心者ですから、twitterのフォロワーよりブログの読者の方がはるかに多い。なのでちょっとした情報提供はブログの方に還元した方が効率的だなあという訳です。

ちなみに、このブログ上でのtwitterのつぶやきはリアルタイムではありません。twtr2srcというサービスを利用してHTMLに記述したモノを貼りこんでます。なので最大1日くらい遅れて反映されることもありますのでご注意ください。

リアルタイムで自動反映させる方法ってあるのかな?
その逆(このブログの更新をtwitterに自動反映)はすでに使っているんだけど。

(追記)
twitterのブログパーツを導入しました。
でもまだ改良の余地がある・・・




タグ:twitter
posted by 紅灯 at 20:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月19日

Bar「つぶやき」その後

twitterを始めて2週間、慣れてきてクライアントなど導入したりしています。
最初はフォローする相手をどうやって探すんだ?なんて思っていたけれど、関心のある人を見つけてフォローするとフォローをかえされたり、フォローしてくれた人をフォローしている人がフォローしてくれたりと(ややこしい文章だな)、少しずつ増えている状況。

大変におもしろい出会いもありました。
共通のテーマからある方を見つけてフォローしたらすぐにフォローを返され、「なるほど、私の方にも関心があるのかな」などと思っていたら、すぐにダイレクトメッセージ。実はこの方、このブログを前から読んでいらっしゃって、コメントを入れようと思ったこともあったそうなんです。ただこのブログ、途中でコメント欄をやめちゃったので(認可制にしていたんですがそれすら理解できない方もいるようなので)、連絡を取れずにいたところ、突然私からフォローが来たというわけ。ネットの世界も広いようで狭い。

もう一つ、某著名なブロガーの方がいらっしゃって私もずいぶん昔から読んでいまして、twitterもフォローしました。有名人の場合、twitterではフォロワーの方が圧倒的に多いのは当然です。ところがしばらくするとこの方からフォローが。これはなんとなくうれしい。ファンレターを出したら返事が来たような感覚ですね。

こういう経験を通してつくづく思っているのは、このtwitterというのは実は相当に斬新なコミュニケーションの世界を切り開くものなのではないかということ。一般的にtwitterは「何のことはないつぶやきを投稿するゆるいツール」と受け止められていますが(私も半月前までそうだった)、意外とこれまでにない人とのつながり方を生みつつある気がします。

twitterでのつながりは基本的には「他人」です。その気になればtwitter上のすべての人のつぶやきを聞くこともできるわけで(実際にはムリだけどさ)、フォローしているだけでは完璧に他人です。これがフォローしあうようになると少々変わってくる。もちろん「他人」という前提は変わらないんだけど、どこか「知り合い感」「連帯感」のようなものが生まれてくる。RTなどを繰り返していれば、リアルで会っても違和感なく話せるかもしれない。

しかしネットではこの「知り合い感」という距離感がしばしば問題になることがあって、ブログのコメント欄や掲示板とかが荒れたり炎上したりするのも一つにはこの距離感の一方的な思い込みがあるのではないかと思っています。
ところがtwitterの場合、「知らない人たちとなんだかつながってる」という感覚が強い。掲示板などとは違って「あなたにこれを言いたい。私の言いたいことを聞きなさい」という主張が(コミュニケーションの中では)少ない。

さらにtwitterでは、特に私達くらいの年代だと、いろんな人がいろんな日常を送りいろんな活動にエネルギーをそそいでいるんだなあという当たり前のことが非常に新鮮に感じられるんです。普段接点のない人たちの日常と微かに触れあうことで、マスコミなんかが当たり前のように扱っている「大衆の群れ」という均質化されたイメージが、実は幻想に過ぎないことが実感としてわかる気がするんですね。

先日、一念発起してダンスパフォーマンスに挑戦した、普段は堅い仕事をしている40代の方が「個性は自分の中にあると思っていたけれど、人との関わりの中で見えてくるものだと初めて知った」と話していたのが印象に残ったのですが、まさにtwitterも「つぶやきの関係性の中から個性が見えてくる」気がします。
posted by 紅灯 at 22:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

カッコいい大人たち

熊本でドキュメンタリー映画の上映会があって日帰りで行ってきた。実を言うと今帰ってきたところ。
私も初夏に取材して、番組にしたイベントなのだけれど、55分の映画になるとまた別格の味わい。というか、撮影・監督が榎田信衛門さんというウェブラジオ&TVの大御所なので当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
そのテーマは「クマモト・バーテンダーズチョイス」という熊本でしか飲めないウィスキー。一匹狼のバーテンダーが手に手をとって熊本オンリーのウイスキーを販売するまでの記録という面白くないわけがない話。企画から販売まですべてが手作りで、本日の上映会も手作り。おまけに入場無料。
そっかそっかそりゃいいやと思っていたら、「お前、前座で何か喋りなさい」と呼ばれたわけです。

無料のイベントほど難しいものはなくて、なにより人の入りがわからない。
私なんぞ「人が少なきゃ喋るほうは気楽でいいや」なんて罰当たりなことを思っていたわけですが(思ってません)、別にボランティアでイベントやってるわけじゃないですからね。企画する方は大変です。
でも幕が上がるときには満席。本当に頭が下がりました。

仕掛け人は熊本のバー・コロンこの人。行動力・企画力も図抜けてるけど、何より新しいものに挑戦するエネルギーが並じゃない。
もう亡くなって20年以上経つけれどその存在は薄れない希有なジャーナリスト・千葉敦子さんは「スランプに陥るのは、簡単な仕事ばかり受けているときだ」と看破したけど、40を過ぎると本当にこの言葉の意味がわかってくる。
上映会が終わって打ち上げで、疲労困憊なのにとてもいい顔をしていたマスタード★鶴田さん。そして信衛門さん。あなた方格好良すぎ。
刺激にあふれた一日でした。
posted by 紅灯 at 01:30| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月08日

Bar「つぶやき」

今更ながらツイッターを始めてみました。
忙しくなるといろんなことに手を出したがると言う悪いクセであります。
このツイッター、以前にも誘われたことがあるんだけど、その時は「そんなつぶやきなんて何が面白いの?」という感じで流していたんですね。その気持は今回も変わっていなかったんですが、ただこの間に結構ツイッターが広がりを見せてる感じはあって気にはなっていたんです。さとなおさんが鳩山首相と会食してツイッター勧めてみたりとか。

で、原稿書きの息抜きに(というか逃避に)ツイッターに登録してみました。この手のものとしてはあんまり直感的でないのと、言葉が直訳体で少々読みづらいので、最初は少々抵抗はあったんですが、基本的なところは慣れました。
確かにつぶやきはつぶやきなんだけど、人によってずいぶん使い方が違うんだなあ、というのが今のところの印象。ビジネスやポリティカルな活動に精力的に使ってる人もいるし、のんびりたんたんとつぶやいてる人もいる。私なんかはまだよく勝手がわからないのでおとなしく後者ですが。

ただ、共通して言えるのは、意外と独り言って面白いんだなあと。いや、厳密には人に聞かせることを前提としている独り言なんだけどね。ブログが人に見せることを前提とした日記なら、こちらは人に聞かせる独り言。そこに他人から返信めいたものも入ったりするんだけど、それはそれでぼやきと相づちみたい。

なんか似たような状況知ってるなあと考えたら、あれです。
バーのカウンター。
激しく自己アピールしている人もいるかと思えば、ぽつねんと呑んでる人もいる。時々マスターが合いの手入れたりなんかしたりして。常連さん同士で話し込んでるかと思えば見ず知らずの人と話し始めたり。何話したか翌日には忘れてたりもするんだけど、かと思えば結構後まで尾を引いたりもする。
あの独特でルーズで魅力的な対人関係空間がネットの世界に再現されつつあるのかななどと思う初心者でした。

あ、koutouwinterという名前で登録してます。フォローは歓迎です(必ずフォローし返すかどうかはわかりません。すみませんルーズなもので)。



posted by 紅灯 at 20:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月07日

レモン!

最近なんだかハイボールが流行っているそうで、あっちでもこっちでもハイボール。
昔からのハイボール好きとしては大変喜ばしいこと何ですが、どうも変。

ハイボールブームはいいんだけど、この前焼肉屋さんにいって「ハイボールあります」の張り紙が。
「ほうほうこんなこところにもハイボールが」と頼んだら、これがこれが。
……これはレモンチューハイととこが違うんだね。
と言いたいとこなんだけど、一応ウイスキーっぽい香りもしないことはない(それがまたマイナスなんだけどさ)。
でもその分さらにレモン味を効かせてあって、酸っぱいことこの上なし。
これがハイボールだって思われたくないという反面、焼酎ブームも(一応)酎ハイブームで裾野を広げたしなあ…などと仕掛け人のサントリーを思いやるのでした。

で、そのレモンですよ。
基本的にはハイボールってレモンなくてもいいんですよ。本当においしければね。でもおいしいハイボールは最後にレモンを振る。
ここのとか、ここのとか、そらもう絶品であります。
でもね、それはウイスキーにソーダ放り込んでレモン搾ればいいってもんじゃないのでして、最初に「うわーレモンだ」なんてのはハイボールでも何でもないと。

じゃレモンはどうでもいいかというととんでもない。
本当にレモンてのはピンキリでして。
うちの近くのスーパーは南アフリカ産のレモンしか置いてなくて、ちゃんと「防かび剤使ってます」とか書いてるのはいいんだけど香りも何もない。
これがですね、長崎産でも香川産でもいいんだけど、ちょっと高いレモンを使ってごらんなさい。ほんの一滴ですーっと鼻に抜けるようないい香り。バーテンダーさんたちの技術はなくても、そこそこのハイボールは楽しめますよ。確かに高いけど、でもほんのちょっとですむからね。トータルではお得。ていうか、同じレモンとは思えないから。

このハイボールブーム、自宅で楽しむならレモンにちょっと気を配るだけで秋の夜長、ずいぶん変わりますよ。

posted by 紅灯 at 00:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月27日

送別会

昨夜は送別会だった。
といっても少しばかり変わった送別会。
私を除いた全員がK社という私とは違う企業の先輩方なのだった。

K社というのは同業他社でライバルである。いつも「やられたああ」などと頭を抱えたりしているところである。
そこの人たちに囲まれて、「それでは紅灯さんに贈る言葉!!」などとやってれば、誰が見たって私はK社の社員であるはずなのだがそれが違うという少し妙な光景。
集まった方々も「何か妙だよな、これって」などと言いつつ、「まあいいじゃない、あはは」とグラスをぶつけてくる。

みんな先輩だし、私が新人の昔々から知っているよという方も少なくない。おまけにこの選挙直前の忙しい時期なのに、開始時間ちょうどに私が到着した時には全員顔を揃えていらっしゃる。普段失礼な口を聞いている私も、だんだん頭が上がらなくなってくる。

そのうち私へのはなむけを一言ずつ、となった。
「彼はね、とにかく生意気だった」
「鼻っ柱強くてね、頼ろうとしない」
どんどん頭が上がらなくなってくる。
「でもね、彼、新人の時、こんな仕事してたんだよ。こんなとこに目を付けるの、俺だけだと思ってたから驚いてね」
「別の仕事の時はね、彼は……」

いくつもいくつも、皆さんの口からこぼれ出てくる話は、私にはすっかり忘れていたことだった。すっかり忘れていたことが次々に目の前に浮かび上がってきた。20代の僕や30代の私がグラスの向こうに顔を出す。

そして2次会。カラオケスナック。
旅立ちの歌が次々にかかり、ステージの上から「がんばれよ!」と手を振る先輩たち。
私はあの笑顔に答えられる人生を重ねてきただろうか。
そんなことをつい考えてしまい、なんだかうまく言葉が出てこなくなった。

最後の曲になった。「あこがれのハワイ航路」。
全員で輪になって肩を組み、フラダンスのように足を上げて踊る。
K社伝統の送別の儀式だそうだ。
両脇をがっしりと抱えられて足を上げ、腹から声を出して歌った。

みなさん、ありがとう。
別れた後、少し足が震えていました。



posted by 紅灯 at 22:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月25日

選挙の季節

中村「青色LED」修二さんを取り上げた毎日新聞のインタビューシリーズ「時代を駆ける」が先週終わった。
中村修二さん関係の大型企画は最近珍しかったのと、担当したのが毎日新聞の名物記者だったので期待して読んでいたのだけど、特に目新しい記事もなく少々拍子抜けしてしまった。
全体としては、「なんで今更?」という感じ。

ただ、最終回では中村さんの近況に触れることが出来た。
私自身、「どうしてるかな」などと思いつつ、最近コンタクトをとっていなかったのだけど、「毎朝7時半ごろ出勤し、講義をしたり会議に出たり。午後6時には仕事を終えて帰宅します」なんて話しているところを見ると一時期よりは落ち着いているというか、ゆとりは出来たみたい。
ただ、「太陽光発電と充電池とLEDを組み合わせた小さな照明システムを、電気のない途上国に導入する財団を支援してい」るとのことで、いろんなことに精力的なのは相変わらず。これは私も協力したい。

精力的といえば、「青色LED事件」のもう一人の立役者、升永英俊弁護士も変わらず精力的だ。
最近突然メールが来て(升永さんはいつも思いついたら即行動。以前は深夜早朝でも電話だったから、メールになっただけマシ)、「一票の格差について意見を出せ」という。何事かと思ったら升永さん、なんと「一票格差問題」に燃えていたのだった。
「一人一票実現会議」を組織、自ら代表となって奔走している姿を記者会見で見た。ただでも1年364日働くのがモットーなのに、よく時間をひねり出せるものだとつくづく感心させられてしまった。

確かに衆院選の一票格差は法の下の平等に直結した問題であり、「60歳過ぎて正義の弁護士に目覚めた」と公言する升永さんには、この問題を放置するのは我慢ならないのだろう。
こちらの方も出来る限り協力したいと思う。

それにしても私と言えば、執筆中の本の初稿が上がり、その膨大な校正に加えて担当編集者のアイディアで水俣病用語集をおまけにつけることになり、「わー、大変だ」などと思っていたところ。
すみません、忙しい人たちに比べれば私なんてまだまだ甘い。楽すぎ。

いい刺激になりました。
それにしても二人とも、タフだなあ。



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2009年07月15日

久しぶりの更新とご報告

多忙に任せてすっかり更新をさぼっていました。
はやいもので2か月ぶり。いやいやいろんなことがありました。
いろんなことやあんなことについてはおいおいご報告するとして、引っ越しすることになりましたので、まずはそのご報告から。

簡単に言えば転勤です。
サラリーマンの宿命ですな。
先日東京で役員と面会する機会があり、その際役員が「異動したくないという者を無理矢理引きはがすようなことはしない」と胸を張っていたので、「私、業務の都合で異動したくないと言ってたのですが、異動させられました」と言ってみたところ、まあその役員の怒ることと言ったら。
「私が言ってるのは親が病気とかそういうことだ、業務の都合なんて関係ない!」という訳ですな。
いくら部下の面前でメンツつぶされたからと言って、役員なのに「業務の都合より社内人事優先」なんて言っちゃって大丈夫なのかこの組織。
しかもその業務の都合というのがこの2か月、とてつもなく多忙を極める状況で、私はその責任者。この最中の異動というのは、どう考えても異常なわけです。同業他社からはあらぬ憶測まで出る次第。

結局、6月の最初に異動は発令されたものの、別の事情もあって赴任は凍結。「業務の都合」はひとまずなんとか収めることができました。

まったく。
すまじきものは宮仕え。
posted by 紅灯 at 18:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月20日

小さなパンドラの函

3年間封印していたものが飛び出してしまった。
タバコである。
3年前、知り合いの禁煙に巻き込まれてそのままやめていたのだが、先週から復活してしまった。
この3年間、自分がかつて喫煙者であったということすら忘れていた状況だったのに、再開するとあっという間である。
タバコの持ち方、火の付け方、吸い方。「ああ、そういえばこんな感じだったっけ」と次々に甦る。
そして反動なのかものすごい量のタバコを吸った。
一日2〜3箱ペースである。
当然、喉が痛くなって偏頭痛もする。何より自分が臭い。

それに面倒くさいということに気づいた。
例えば出かける時、(えーと、タバコ持ったっけ、ライターは…)などとやっている。面倒くさい。
仕事をしていて、(そろそろタバコ吸うかな)、または(これ終わったらタバコ吸いに行こうかな)。面倒くさい。
かつてタバコを吸っていた時には大して感じていなかったことが、今はそれ自体がストレスとして感じる。
一言で言えば、わずらわしい。

やっぱり、またやめよう。
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2009年03月26日

新入社員のみなさんへ

新入社員が町にあふれる季節である。
きょう、ニュースでは「社会人のマナー教室」というのをやっていた。
中小企業が合同で、新入社員のマナー教室を開催しているらしい。
それはそれでいいのだが、ちょっと引っかかったことがあった。
講師(人材コンサルタント)が「給料はお客様に払ってもらっていることを自覚して、プロ意識を高めなさい」と話していたのである。
これっておかしくないか?

「プロ意識を高める」ことは大いに結構。
しかし給料は「客に払ってもらっている」のか?
答はノーだ。
もちろん「経営者に払ってもらっている」のでもありません。
「給料とは何か」。これを教えるのが社会人のイロハではないだろうか。

以前、青色発光ダイオードの実用化に成功した中村修二さんを数年間にわたって取材した。テーマは「仕事の対価」である。
「仕事の対価」とは、サラリーマンの場合それは「給料」である。
顧客に対して製品なりサービスなりを提供し、その対価を受け取るのである。そこにあるのは1対1の関係であり、決して「払ってもらっている」ものではない。
当然それは経営者と労働者の関係も同じだ。労働を提供する代わりに対価を受け取るだけのことだ。そこに上も下もない。
ところがこの国ではそれが当たり前に出来ていないフシがある。中村修二さんのケースにそれが端的に表れた。
「給料を払ってやってるんだからありがたく働け」というおかしな考え方に中村さんは異を唱え、貫き通した結果、一審の判決で、600億円を受け取ることが出来ると認定されたのである。

これは日本社会にようやく意識改革をもたらすことになった。
「仕事の対価」を制度として整えるところも増えてきた。
しかしそれでもいまだに「給料を払ってもらってる」なんてことを新入社員に教える「人材のプロ」とやらがいると思うと暗澹たる気分になる。サクラも咲いていい気分なのにね。

いい仕事をして、その対価に見合った報酬を受け取る。それが「プロ意識を高める」というものだろう。
一方で会社のカネと自分のカネの区別もつかない中小企業のオヤジがまだこの国にはウジャウジャいる。
「金は客に払ってもらっているんだ」と教える相手は、新入社員ではなく、経営者の方だろう。

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2009年03月18日

阿木燿子さんのこと

仕事で阿木燿子さんにお会いした。
フラメンコと文楽を融合させた「FLAMENCO曽根崎心中」のプロデュースを手がけている関係のプロモーションである。
フラメンコで曽根崎心中でいうと色物と思う方もいるかもしれないけれど、文化庁芸術祭優秀賞を受賞する一方、スペインでのフェスティバルでも評価され、もう8年も上演を重ねているのだ。

お仕事とはいえ、阿木さんのような素敵な方とご一緒するのはやはり楽しい。何者にも動じなさそうなおっとりとしたスローな話し方もご健在。私自身はフラメンコの知識はほとんど無いが、阿木さんとフラメンコの組み合わせと聞けば、これほどマッチするものもない気がする。
阿木さんの詞といえば「港のヨーコ…」や山口百恵の一連の作品がすぐ浮かぶ。最近リバイバルヒットの水谷豊「カリフォルニア・コレクション」も阿木さんの作品だ。
いつの間にか褒章までもらっちゃったけれど、相変わらず偉ぶらず人なつっこく、よく笑って座を和ませてくれる。

その阿木さんがふと、「持続し続けること、それが大切ですよね」と言った。
作詞に女優にエッセイに舞台のプロデュースにと、常に活動の幅を広げる阿木さんの信念が「持続」というのは、これはやはりすごい。
いろんなものに手を出しまくるのは簡単なんだけど、それを持続し続けるというのは、これはどうにも大変だから。
とにかく時間が無くなってきて、そのうち飽きも手伝って以前の活動に興味が薄くなってしまう。
そうなると中途半端になるのはもちろん、せっかく応援してくれたり協力してくれた人たちも裏切ることになってしまう。

レンジを広げながら、持続していく。
わかっているけどいちばん難しいんだよなあ。
ゼロからモノを作り続けている人の凄さ。刺激になりました。


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2009年03月12日

一人で生きられるなら

昨夜、料理人の友人Mさんと酒を飲んだ。
夕方珍しくMさんから誘いの電話があったのだ。
仕事が押して11時過ぎになったのだけれど、指定された店でジャンパーをはおったMさんがビールジョッキを傾けて待っていてくれた。
Mさんは一人で小料理屋を切り盛りしている。昨日は一日、店を休んで仕込みに充てていたのだという。
実はMさん、きょうからお品書きを一新するのだ。
料理店がメニューを全面的に変えるのは、店のリニューアルより大変だろうなあとは素人の私でも想像が付く。
Mさんは最近思い悩むことが多かったそうだ。店を開いて5年くらい経つのだけれど、それくらいの時間は「慣れ」を生む。
細やかで丁寧な調理でも、続けていれば「手を抜いているのでは?」という疑念が自らわいてくる(手を抜いてないのは私が証明するのだが)。メニューも定番化して作り手に刺激がなくなってくる。
──これでいいのだろうか。
そう思ったらしい。
Mさんの店ではきょうからコースを取り入れる。量は少しずつ品数は多く、スイーツまで作る。もちろんすべて一人で手作りだ。一品料理もちゃんとある。お店のキャパシティを考えれば「大丈夫?」と声をかけたくなるような手間の嵐である。
でも、そうやって自分に挑戦することが今、Mさんがたどり着いた答のようだ。
「これから春にかけて食材が増えるんです」
焼酎のお湯割りを舐めながらMさんが言った。
「その季節、食べ物屋は楽なんです。だから今年は夏に勝負したいんですよ。夏は食材がなくなって、肉か何かでごまかしたくなる。その時にちゃんとしたものを出したい」
そう言った表情はとても穏やかで、いい顔だった。

この話を、やはり一人でワインバーを切り盛りしているSさんに話した。するとさっそく今日行ってみると言う。Sさんが新しいお品書きの一番乗りの客になる。きっとMさんを意気に感じるところがあるのだと思う。
一人で何かを続けている人たちの強さは、組織のそれとは比較にならない。
たまたまMさんと呑んでいた別のテーブルで組織人たちがはしゃいでいた。中には個人営業の人もいたのだが、商業ベース作家という点では同じである。
この人たちの会話がもう何とも情けない。手垢の付いた組織論を声高に振り回すだけで、組織と個人の区別も付いていない。でもご一行は至極ご満悦のご様子。別にこういうグループは珍しくもないんだけれど、その時はMさんの話に感じ入っていた後だったから、余計に悲しく思えた。
こういう人たちは、「人に頼らない」「一人で生きていく」と言う発言に敏感に反応する。その言葉を聞いた途端に渋面を作って説教を始める(なぜか組織人は説教とか教訓とかが好き)。
社員は経営者に、経営者は社員に依存する仕組みを作り上げているから、一人で生きていく強さを認めるわけにはいかないんだろうな。

私の好きな詩人に、もう亡くなってしまったけれど茨木のり子さんという人がいて、このブログでも一度紹介した
その茨木さんの代表作が「倚(よ)りかからず」だ。
これはもうとても有名になってしまったのでわざわざとも思うのだけれど、どうしてもここで改めて紹介したい。
というのは、以前この詩を「読むに耐えない」と否定した財界人がいたことを、昨日思い出したからだ。

倚りかからず

 もはや
 できあいの思想には倚りかかりたくない 
 もはや
 できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや
 いかなる権威にも倚りかかりたくない
 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある
 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ

MさんもSさんも、それにTさんやFさんやIさん……。沢山の人たちが目に浮かぶ。
私が敬愛する多くの人たちは、この詩に描かれている誇りを心の内に持っている。
「人間は一人で生きられない」というのは、それは真実だろう。
しかし、「一人で生きられるのなら…」という思いを捨て去った人間は、システムの奴隷になり下がる。
引き替えになにがしかの安楽は得られるだろうけれど。

そして私は。

一人なのだろうか?

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2009年03月02日

サブプライムとヤクザの論理

世界的大不況で日本でもいろいろととんでもないことになっているけれど、東南アジアの凄まじさを知って愕然とした。
金融優等生だったシンガポールでは政府が外国人労働者を切るように企業に指導しているし、タイではミャンマーから逃れてきた少数民族への虐待が深刻化している。沿岸にボートで流れ着いた人たちをタイ海軍が船で沖に連れ戻したりしている。この少数民族はミャンマーでも軍隊から暴行を受けたりして逃れてきた難民なのだが、タイ政府は「タイ国民の仕事を奪われるわけにいかない」という理由で追い返しているのだ。
タイは比較的外国人に寛容な国だし、私もタイは何度か行って好きな国のひとつだけにショックだった。

こうした大不況の原因は金融不安であって、その元凶はサブプライム問題だってことはもう誰でも知ってる。
「サブプライム問題はややこしい」なんて言われているけれど、それは細かい部分だけがややこしいのであって、基本的には架空取引と架空転売に限りなく近い行為を繰り返すだけの詐欺まがいの構図だったことは経済関係者なら当時から誰でも知っていたはずだ。少なくとも私はそう思っていたし、警鐘を鳴らす学者も沢山いた。いずれ必ず誰かがババを引く。ひょっとしたら参加者全員がババを引くのかもしれない。でもそのスパイラルが上を向いている限り、そこに手を突っ込めばいくらでもカネがつかめるのだ。だから自称カリスマ経営者たちが殺到した。今になって「この問題は複雑だ」なんて言い逃れている奴を信用してはいけない。
まったく、人間というのはどうしようもなく馬鹿で強欲だとため息をつくのは簡単だけど、問題はそこじゃない。

暴力団抗争事件の裁判の判決文には独特の表現が出てくる。
「暴力団特有の論理をもって犯行を行い……」というヤツで、要するに暴力団の内輪モメでカタギに迷惑かけるなということを裁判所が上品に言っているわけである。抗争の流れ弾に当たって死んじゃったなんて迷惑どころじゃない。
サブプライムに端を発した大不況は、実はこれである。
欲に目がくらみ金の貸し借りで大はしゃぎしていた連中の会社が潰れたり自殺したりするのはどうでもいい。それは『暴力団特有の論理』と何ら変わるところがないからだ。ヤクザどうしがいくら殺し合っても誰も同情はしない。

問題は、そうした論理と全く関わりのなかった人たち、「暴力団ではない人たち」が巻き添えにされていることである。
地道に働いていた派遣社員が契約を打ち切られ、あげく街角で人々を襲う。
内定を取り消され、「頼るのはカネだ」と振り込め詐欺の片棒を担ぐ大学生。
そしてアジアの片隅では難民として遇されるべき少数民族が不況の名の下に虐待を受け続けている。
大不況は確実に人々の倫理観をむしばみ始めている。
それはまるで、倫理観を失った経営者たちの腐臭が伝染し始めているみたいだ。

大不況対策を声高に叫ぶ経営者たちは、保身に走る前に、いったい自分がどれだけの世界中の人々を殺めてしまったのか、その汚れた手を見つめるべきだ。

posted by 紅灯 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

秘密兵器登場


ポメラを買った。
ポメラニアンではなくてポメラである(すみません)。
去年11月くらいの発売当初は品薄になるくらいの人気だったと聞いているので、知っている人には「そうきたか」と思われそうだけど、関心のない人には全くわかんない話なので説明します。

ポメラを開いたところはディスプレイとキーボードがついていて一見ノートパソコン。でもパソコンではない。
「開いたところは」と書いたように、普段は閉じているのである。それも閉じるとなんと三分の一くらいになってしまうのである。閉じているところを見た人が「あれ、DSの新しいのですか?」と聞いたくらいの大きさ。小さいでしょ。

で、側面のボタンをぽちっとすると、チャッと音がして蓋が開く。この蓋の部分がディスプレイ。
さらに中折れの部分が左右に開き、これがキーボードに変身するのである。
「おおおっ」と思わずつぶやいてしまうギミックなのである。こういうギア、好きな人はたまりません。

でもパソコンじゃないんです。テキスト文書を打つだけ。ネットにもつながらないしスケジューラーさえついてない。ひたすらテキストを打つだけ。
でもディスプレイは見やすいし日本語変換はATOKが標準でついている。電源ONですぐ書き始められるし、キーボードが開くところもしっかりした作りで薄っぺらさはみじんもない。単4電池2本で一ヶ月くらい持つらしい。ちゃんとちゃんとの超小型ワープロ専用機といったところ。
作ったのは文具メーカーのキングジム。パソコンではなく「デジタルメモ」と名付けています。

実をいうと今回のこのブログもポメラで書いてます。
ソファにだらしなく座って太股の上にポメラ乗っけてぱちぱち書いてます。
とにかくこれがあるとどこでもほんのちょっとあいた時間に書き物ができる。バッテリーを気にするストレスもない。
PCとの接続は、SDカードのやりとりでもいいんだけど、ちょっとおもしろいのがUSBでつなぐとポメラ自体をストレージとしても使えること。電源を入れてなくてもまるでUSBメモリみたいに使える。

ただ欠点もいくつかあって、特に困るのは1つのファイルに最大8000字という制限があること。
ファイルも階層を作って整理することはできないので、何章もある原稿は章の数だけファイルが並んで探し出すのが面倒だったりする。

でもそういう面はがまんしても、これは私みたいに一日何か書いているのが仕事みたいな人間には一度使うと手放せない。だって電源入れたらすぐ書けて、蓋閉じればそこですぐ終われるんだよ。
今年に入ってやたらめったら仕事が増えている私としてはまさに秘密兵器、になるような気がする。

ていうか、仕事減らせよ。





タグ:ポメラ
posted by 紅灯 at 19:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月26日

そ、そんな

現在連載中の原稿の次の〆切りがいつなのか、全然連絡がなかったので、こっちから訊いてみた。恐る恐る。
すると今日、メールで返信が。
こういう予感に限って当たるもので、「〆切りは31日ですよ」とのこと。

なんてこった!
多分正月を挟んだのでごちゃごちゃして連絡が漏れちゃったんだろうけど、うわああ、あと1週間。
「最悪来月7日まで待てますよ」という優しい言葉も付いていたんだけど、1日から6日まで出張だし。
どうしよ。予定では最低100枚で、なおかつ今回は最終回になるかもしれないので更に増える可能性もあるのだ。
1週間100枚以上って、これまで経験したことのないペースだなあ。
初めてハーフマラソンレースに出る時ってこんな感じなのかなあ。

なんて妄想してる場合じゃない!(既に現実逃避だね)。
まあ、今週は本業の方がそれほど混みあってないのがせめてもの慰め。
何とか時間作るしかない!

などとこの場で決意表明して自分を追い込むのでありました。


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2009年01月21日

47歳の大統領と27歳の作家志望

ついに子ブッシュがいなくなった。
オバマ新大統領への尋常ならざる期待値はブッシュが消えるということでものすごく底上げされているんだろう。
でもアメリカ国民の皆さんが今どんなにブッシュを嫌おうと勝手だけど、2期8年もの間この男を指導者に選んだのは自分達だという自覚だけは持っておいてほしいと切に思う。世界中が洒落にならないほど迷惑をこうむって、挙げ句命を落とした無辜の民が世界にどれだけいるのか、アメリカ国民は絶対に忘れるべきじゃない。

で、オバマ新大統領の演説。感動的なラストばかり紹介されているけれど、実はかなり冷静に政策を語っている。それも端的に。
「今日問われているのは政府の大きいか小さいかではなく、政府か機能するかどうかだ。適正な賃金の仕事や負担可能な医療費、尊厳ある退職後の生活を手に入れる手助けを政府が出来るかどうかだ。その答が『イエス』の時、我々は前に進む。『ノー』の時、その政策は終了する」
シンプルだ。シンプルだが小泉元首相と決定的に違うのは中味があると言うこと。世界各国で続く「大きな政府・小さな政府」の論争にきっちりと責任ある政治家として答を出している。こんなシンプルな言葉を日本の政治家はなぜ言えないのかな。

安全保障についても同様だ。
「防衛に関し、我々の安全と理想は二者択一であり並列しえないという考え方はまやかしであり、否定する」。
ネオコンや日本のタカ派の主張する「平和主義は理想である」という批判を(そしてブッシュの8年間に世界に広まった考え方を)真正面から斬って捨てた。しかし新大統領は理想主義に走っているわけではなく、冷静に計算している。
「先の世代は(第2次大戦)、我々の力だけでは我々を守ることは出来ないし、その力で思うままに振る舞っていい訳ではないことをわきまえていた。軍事力は思慮深く用いることでその力を増すことを踏まえ、我々の安定は我々の大義の正しさと力強さ、そして謙虚さや自制からもたらされることを知っていた」。
軍事戦略論としても秀逸であり端的だ。

これだけ短い言葉で内容のあることを指し示すのは簡単じゃない。と思っていたら、この演説、オバマ大統領が27歳の側近ライターと二人で書き上げたという。
このライターは「小説家になりたい」と話しているそうだけど、現実を見つめて端的な言葉に纏めあげるこの手腕は政治にこそ向いているんだろうな。
しかし自分より20歳も若いパートナーとこれほど重要な仕事を纏めあげていくオバマ大統領の柔軟さには驚く。
演説の内容よりむしろそのことが今後のオバマ時代を象徴することになりそうだ。


posted by 紅灯 at 14:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月04日

大人の定義2009

みなさま、明けましておめでとうございます。
いつも御世話になっている方、このブログだけで私をお知りの方、普段不義理をしている方、とにもかくにも今年もよろしくお願いします。

さて、去年は私にとってなかなか波瀾万丈だった年でしたが、今年は去年以上に大波瀾万万丈な年になりそうな予感がしています。
といいますか、つまりは人生も半ばを過ぎ、そろそろ中締めをして次のステージを見付けないといけないという焦りのようなものもあります。
皆様方におかれましてはまたいろいろ厄介をかけるかもしれませんが、温かい目で見てやって貰えると幸いです。

などと柄にもないことを考えていた正月の実家でのこと。
妹夫婦が子どもを連れて帰省していました。
上の女の子は小学一年生、下の男の子は幼稚園の年少組。
本来なら私はれっきとした「おじさん」なのでありますが、なぜか彼女彼らにファーストネームに「くん」付けで呼ばれているのであります。
仮にここでは「灯くん」ということにしておきましょう。
上の子は、昔は「セミは夏が終わるとゴキブリになって冬を越すんだよ」「えー、すごおい」などと私の言葉にいちいち感動してくれていたのに、どうも最近冷たい。
この年末年始も「また灯くんが嘘ばかりついてるよ」などと親に告げ口される始末。それもどうも上から目線。七歳児に上から目線とはどういうことかと思っていたら謎が解けました。

私が同窓会で留守にしていた夜、私が以前出演した番組のDVDをこの子たちに見せたらしいんですな。そうしたら二人の驚くこと驚くこと。
「灯くんがテレビに出てる!」「出てる!」
そこで「ほら、灯くんはちゃんとお仕事してるね」と妹だか親だかが言ったところ、さらに大騒ぎ。
「えーっ、灯くん、お仕事してるの??」
「そうだよ、お仕事してるんだよ」と説明しようとする親たちにトドメの一言。
「灯くんって、大人だったの!?」

おい、今までいったい何だと思ってたんだ。
という当然の疑問に対して彼女はこう答えたらしい。
「だって、大人は灯くんみたいな馬鹿なことはしないんだよ!」

あのね。
どうにも君たちのお母さんのお兄さんなんだから大人に決まってるだろ!というのはどうやら子どもには通用しない考え方のようです。
「大人」=ちゃんとしている。
「子ども」=馬鹿なことしたりして怒られる。
「紅灯」=馬鹿なことしてお母さんたちに怒られたり、自分から見ても頭が悪そうでいつもふざけてる。
故に「紅灯」=「子ども」。
QED。

うーん、子どもってよく見てます。というかちゃんと論理的に物事を考えているような気がします。
どんなに奇妙な結論だって、常識を持ってきて一件落着にしたりせず、ちゃんと自分で考えた結果ならそれでよし。
これを年始の教訓としたいと思います。
(違うかな?)







posted by 紅灯 at 17:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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