2008年03月02日

母ちゃん見てるか、のさっとるぞ

水俣病患者で語り部の杉本栄子さんが2月29日ご逝去されました。
3年前に胃ガンが見つかり、手術したのですが、その後別のガンも発見。去年からの闘病生活の末、なくなりました。まだ69歳でした。
葬儀が昨日、水俣市で行われ、私も行ってきました。
雲一つなく晴れ渡れ、水俣の海から空に青い色が抜けていくような気持ちのいい日でした。

葬儀には数百人が参列し、会場に入りきれなかったため、急遽扉を開けて外にもいすを並べる状況でした。
式の前の時間を使って弔電が読み上げられたのですが、最初の一通目がずいぶんと長い。
「今朝、仕事で上京中、テレビで原田正純医師のインタビュー番組の予告をたまたま見て、『まだまだ先生はお元気に仕事をされている』と嬉しく思った直後に、思いもかけない悲報が届きました」という書き起こしからして、弔電の雰囲気ではありません。
心のこもった文章が、3分以上も続いたでしょうか。
「一体この弔電は?」誰もが思った頃、読み終わり、差出人の名が告げられました。
「……熊本県知事、潮谷義子さま」。
潮谷さんは前日の通夜には参列されたと聞いています。やはり相当にショックだったのでしょう。

杉本栄子さんは、昭和13年に水俣病の多発地帯のひとつ、茂堂地区の網元の一人娘として生まれました。水俣の漁は家族単位で操業します。家族で楽しそうに漁に出ている写真が残っています。
20代の頃と思われる杉本さんの写真は、屈託なく笑っています。
その後、家族は次々に水俣病に倒れます。杉本さんも昭和39年に認定を受けました。
しかしそれは悲劇のほんの始まりにしか過ぎませんでした。

水俣病の最大の悲劇の一つは、いくつもの入れ子構造になった差別にあります。
漁民同士が差別し、患者を市民が差別し、さらに水俣市民は差別を受ける。
杉本栄子さんは、この入れ子のいちばん中心で、苛烈な差別を受けました。
平成に入ってから杉本さんは「語り部」をつとめますが、それまでは決して精神的な居場所を見つけていたとは言えないのは、この苛烈な経験故のことでしょう。

しかし一方では強靱で明るい性格で周囲を照らし、水俣病運動の中で独特の位置を占めるようになります。
「のさる」という言葉で水俣病を表現し、周囲を驚かせました。

「水俣病はのさりじゃ」。

「のさる」「のさり」とは、水俣弁で、「贈り物」という意味です。
いくらこちらが、被害者が心を尽くしても、相手が変わらなければ何も変わらないかもしれない。それならこちらが変わればいいじゃないか。それに気づかせた水俣病は「贈り物」だというのです。

原田正純さんは、杉本栄子さんのことを「チッソや行政の責任を追及する一方で、水俣病を全身で受け止め、患者としての生き方を切り開いた、水俣病の原点のような人」と評しましたが、まさに至言です。

葬儀の最後に、長男の肇さんが挨拶に立ちました。
淡々と、会葬への礼を述べる肇さんは、最後にふっと言葉を切り、会場を見渡しました。
「母は、いろんな人と会うたびに、『のさりだ、いろんな人と出会わせてくれたのものさりだ』と言っていました。今こうして、この場所から、多くの花に囲まれた皆様のお顔を拝見していると、母の言っていたことが実感できる気がします」。
そこで肇さんは、震える語尾を振り切るように声を上げました。
「母ちゃん、見とるか。のさっとるぞ。見えるか」

肇さんは静かに目をつぶり、そして開きました。
すすり泣きだけが響く会場を目に焼き付けようとしているかのようでした。
かけがえのない、母親の代わりに。




ラベル:水俣病
posted by 紅灯 at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 水俣病 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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