夕方珍しくMさんから誘いの電話があったのだ。
仕事が押して11時過ぎになったのだけれど、指定された店でジャンパーをはおったMさんがビールジョッキを傾けて待っていてくれた。
Mさんは一人で小料理屋を切り盛りしている。昨日は一日、店を休んで仕込みに充てていたのだという。
実はMさん、きょうからお品書きを一新するのだ。
料理店がメニューを全面的に変えるのは、店のリニューアルより大変だろうなあとは素人の私でも想像が付く。
Mさんは最近思い悩むことが多かったそうだ。店を開いて5年くらい経つのだけれど、それくらいの時間は「慣れ」を生む。
細やかで丁寧な調理でも、続けていれば「手を抜いているのでは?」という疑念が自らわいてくる(手を抜いてないのは私が証明するのだが)。メニューも定番化して作り手に刺激がなくなってくる。
──これでいいのだろうか。
そう思ったらしい。
Mさんの店ではきょうからコースを取り入れる。量は少しずつ品数は多く、スイーツまで作る。もちろんすべて一人で手作りだ。一品料理もちゃんとある。お店のキャパシティを考えれば「大丈夫?」と声をかけたくなるような手間の嵐である。
でも、そうやって自分に挑戦することが今、Mさんがたどり着いた答のようだ。
「これから春にかけて食材が増えるんです」
焼酎のお湯割りを舐めながらMさんが言った。
「その季節、食べ物屋は楽なんです。だから今年は夏に勝負したいんですよ。夏は食材がなくなって、肉か何かでごまかしたくなる。その時にちゃんとしたものを出したい」
そう言った表情はとても穏やかで、いい顔だった。
この話を、やはり一人でワインバーを切り盛りしているSさんに話した。するとさっそく今日行ってみると言う。Sさんが新しいお品書きの一番乗りの客になる。きっとMさんを意気に感じるところがあるのだと思う。
一人で何かを続けている人たちの強さは、組織のそれとは比較にならない。
たまたまMさんと呑んでいた別のテーブルで組織人たちがはしゃいでいた。中には個人営業の人もいたのだが、商業ベース作家という点では同じである。
この人たちの会話がもう何とも情けない。手垢の付いた組織論を声高に振り回すだけで、組織と個人の区別も付いていない。でもご一行は至極ご満悦のご様子。別にこういうグループは珍しくもないんだけれど、その時はMさんの話に感じ入っていた後だったから、余計に悲しく思えた。
こういう人たちは、「人に頼らない」「一人で生きていく」と言う発言に敏感に反応する。その言葉を聞いた途端に渋面を作って説教を始める(なぜか組織人は説教とか教訓とかが好き)。
社員は経営者に、経営者は社員に依存する仕組みを作り上げているから、一人で生きていく強さを認めるわけにはいかないんだろうな。
私の好きな詩人に、もう亡くなってしまったけれど茨木のり子さんという人がいて、このブログでも一度紹介した。
その茨木さんの代表作が「倚(よ)りかからず」だ。
これはもうとても有名になってしまったのでわざわざとも思うのだけれど、どうしてもここで改めて紹介したい。
というのは、以前この詩を「読むに耐えない」と否定した財界人がいたことを、昨日思い出したからだ。
倚りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
MさんもSさんも、それにTさんやFさんやIさん……。沢山の人たちが目に浮かぶ。
私が敬愛する多くの人たちは、この詩に描かれている誇りを心の内に持っている。
「人間は一人で生きられない」というのは、それは真実だろう。
しかし、「一人で生きられるのなら…」という思いを捨て去った人間は、システムの奴隷になり下がる。
引き替えになにがしかの安楽は得られるだろうけれど。
そして私は。
一人なのだろうか?
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