もうそんなに経つのか、早いなあというのが実感だ。
月並みな言い方だけど、あの日のことはつい昨日みたいに思い出せる。
吉野川の第十堰というのは、江戸時代に作られた石積みの堰だ。流れを完全に止めず、大雨の時には自然に流量が調節されて洪水を防ぎ、普段は多くの生き物が生息するという、先人の知恵が生かされた堰だ(ちなみに「第十」というのは地名です。十番目の堰という意味ではありませんよ)。
二百年以上経っても生き続けているこの堰を、国が老朽化と洪水対策を理由に取り壊し、下流に1000億円をかけて(出た)巨大な可動式の堰の建設するという計画を発表。
推進する自民党と建設・土木業者、これに反発する市民グループというわかりやすい構図を経て、1998年、市民グループは住民投票の実施を求め署名を呼びかける。その結果、徳島市の有権者の半数近いの署名が集まり、市議会に住民投票条例の制定を求めた。
ところが建設推進派が多数を占める市議会は条例案を否決。
このため市民グループは市議会議員選挙に独自候補を擁立し3人が当選、その結果、定員40人の市議会のうち住民投票賛成派が22人を占め勢力が逆転したのだ。
そして6月、日本で初めて国の河川事業を問う住民投票条例が成立した。
ところが敵もさるもの。この条例案には仕掛けがしてあったんですな。
なんと、「投票率が50パーセントに達しなければ無効とする」という条項があったのであります。投票率が50パーセントに満たなければ開票すらされないという異常な条件に対抗するため、市民グループはボランティアの応援を頼み、有権者のおよそ半数の家にチラシを配ったり、辻立ちを繰り返した。なんと言っても、直前の市長選挙の投票率は30パーセント台だったのだ。
一方可動堰推進派は、組織力を生かして建設を求める署名を全県下で集め(吉野川と関係ないところも含め)建設大臣に提出する一方、「住民投票に行かないよう」呼びかける。この動きを市の選挙管理委員会はたしなめるどころか「投票を強制するようなものでもないので、有権者の判断に任せたい」と耳を疑うような談話を発表した。
そして迎えた1月23日の投票日(そういえば『1,2,3で投票に行こう!』って呼びかけてたなあ)。
よく晴れて寒い日曜の朝、街は静かだった。
静かだったけど、街中が言いしれぬ高揚感、連帯感に包まれていたのをよく憶えている。
一人また一人と投票所へ足を運ぶ人たち。
「自分達の一票が確実にこの街の未来を決めるんだ」という責任感と誇りでつながっていた。
「50パーセントを超えなければ開票さえしない」という縛りが、かえって徳島の人々の誇りを目覚めさせたのではないか、そう思いましたね。
そうして住民投票の結果よりまず、投票率は50パーセントを超えるのか、投票は成立するのか、徳島市民は固唾を呑んで見守った。
午後7時すぎ、選管は投票率が50パーセントを超えたことを発表、投票が成立した。
そして開票。
その結果──
可動堰建設に反対が10万2700票。賛成は9300票。
圧倒的な結果が示され、国の河川行政にNOが突きつけられた。
この徳島のケースが、住民投票で行政を監視するというシステムの先鞭を付けたとされている。
やはりそれは、この徳島のケースが、政党やイデオロギー色がほとんど無い純粋な市民運動から出発し、最後までそれを貫いたという点が大きい。姫野雅義さんという沈着冷静で無色、そして全くぶれない強いリーダーシップを持った方がいたということもある。
もちろん批判もあった。「なんでもかんでも住民投票というのは間接民主主義を否定するものだ」という批判は十分に理解できる。
当時の建設相は「民主主義の誤作動だ」と発言した(このとき「誤作動しているのは建設相だ」とやり返したのは菅直人氏である)。
しかし、投票箱を開封すらせず圧殺しようとした現実を前にして、民主主義を語る資格はいったい誰にあるだろう。
自分の一票で何かを変えられる。
現在に通じる小さな芽が、この時徳島で生まれていたのかもしれない。
私が最後に第十堰を見てから7年くらい経つ。
堰をなめらかに越えてゆく川の流れにたゆたう陽光。耳に心地よいせせらぎの音と波に遊ぶ小鳥の群れ。
あの素晴らしい景色は今も健在なのだと思うと自然に笑みが浮かぶ。
徳島の人々に感謝。
ラベル:第十堰