映画「ノー・カントリー」をみて、原作のコーマック・マッカーシー「血と暴力の国」を読んだ。
「ノー・カントリー」は去年のアカデミー作品賞を受賞した話題作だが、近年のアカデミー作品としては出色というべきだろう。
コーエン兄弟の作品らしい静かな緊張感が全編を覆う映画だけれども、後半がらりと雰囲気が変わるところがあり、ちょっと理解に苦しんで原作を買い求めた。
ストーリーは単純だ。
荒野の真ん中で男が大金と麻薬と死体と死にかけているメキシコ人に遭遇する。
男は金を持って逃げることを決意するが、組織に雇われた「異常な」殺し屋が男を追う。その二人の足取りを実直な老保安官がたどる。
ただ、このストーリー自体に余り意味はない。要は、「この国」に生きると言うこと、現代のアメリカ社会で生きていくと言うことはどういうことなのかをバイオレンスと愛情とにまみれながら描いていく。
映画はビリビリした緊張が息をつくことのできない人生のあがきを感じさせるし、原作の方は徹底して即物的な描写だけをつなげながら詩情というしかない筆致で登場人物たちの人生を描き出す。
映画も素晴らしかったが、原作の素晴らしさはそれ以上だ。全くタイプは違うが、初めてアービングを読んだ時を思い出した。こんな小説があるのかと、今までマッカーシーを読まなかったことを後悔した。
物語の終盤、殺し屋が男の妻を「無意味に」殺そうとする場面を引用してみる。
「カーラ・ジーンは最後にもう一度シュガーを見た。こんなことしなくていいのに。こんなことしなくていいのに。こんなことしなくていいのに。
シュガーは首を振った。おまえはおれに自分を弱くしろと頼んでいるわけだがそれは絶対にできない。おれの生き方は一つしかない。それは特例を許容しないんだ。コイン投げは特例を認めるかもしれない。ちょっとした便宜を図ってやるために。ほとんどの人はおれのような人間が存在しうるとは信じない。ほとんどの人にとって何が問題かはわかるだろう。自分が存在を認めたがらない者に打ち勝つのは困難だということだ。わかるか?」
そしてまた別の場面。老保安官に、さらに歳を取っている叔父が語りかける。
「だからおれはいつも同じことを考える。なぜみんなこの国にはうんと責任があると思わないんだ?でも思わないんだな。国ってのはただの土地だから何もしないとも言えるがそんな言いぐさにはあんまり意味がない。わしは以前ある男がショットガンで自分のピックアップ・トラックを撃つのを見たことがあるよ。トラックが何かしたと思ったんだろう。この国はあっさり人を殺しちまうがそれでもみんなこの国を愛してるんだ。わしの言ってることがわかるかね?
わかる気がしますよ。叔父さんはこの国を愛してますか?
そう言っていいだろうな。しかし言っとくがこのわしは石ころを詰めた箱みたいに無知だから言ってることは真に受けんほうがいいよ。」
会話の「」と読点がまったくない文体が体にしみこんでくる。素晴らしい。
この作品の正確なタイトルは「no country for old man」だ。「老人の住む国にあらず」アメリカ。
きわめて厳しく生きづらい国でうごめく必死の人生がこれでもかと語られるこの物語は、闇の中で微かに、ごく微かに灯る希望の火のようなものを暗喩して終わる。
アメリカという国が、厳しさ生きづらさを世界にまき散らした8年間がやっと終わる。
その先に微かな希望があるのかどうか、少なくとも今は期待を持ってバラク・オバマをみていたい。