2008年11月30日

主のいないパーティ

土曜日、江口司さんの出版記念パーティが開かれた。
現代書館から出版された「柳田國男を歩く―肥後・奥日向路の旅」だ。
江口さんは今年3月に不運な事故で亡くなってしまったから、遺著ということになる。
元になった原稿は、以前に熊本日日新聞に連載されたものだ。出版を希望していた江口さんの遺志を継いで友人や家族が編集を続けた。一時は断念せざるを得ない状況だったとも聞いたが、Hさんらの粘り強い仕事でついに出版にこぎ着けた。
出版記念パーティというのは普通は賑々しいものだが、今回はやはりいささかしめやかだった。
「江口司さんを語ろう会」という名前の通り、みなさんが江口さんの思い出を次々に話した。
司会を務めたのは陶芸家のYさんで、会が終わった後「お疲れさまでした」と声をかけると「いや別に」と照れくさそうに笑っていた。
遺稿を丹念に探し出して整理したHさんは、この日も事実上の幹事として会場を仕切っただけでなく、放送作家という本業を存分に発揮して、素晴らしい会の演出を担当した。一番忙しかったはずなのに、私を見つけると足を止めて声をかけてくれた。
一番祝福を受けるはずの江口さんはいなかったけれど、江口さんを思いやる人たちが懸命に作った、あたたかなパーティだった。

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2008年11月23日

走るって楽しいのだと初めて知った

家の近くに新しいスポーツジムがオープンした。
今通っているジムに相当不満がたまっていたところだったから、一も二もなく見学&入会。
ビルそのものが新築だけあってきれい。マシンも最新型だし数も揃ってる。プールもぴかぴか。
なにより、温泉付きなのだ。露天風呂まである。サウナもあるしコールドミストもある。
これまで週に一度くらい仕事場の帰りに温泉に寄っていたけれど、これからはジムに通うだけで済む。うーむ、これでジム通いの頻度が高くなりそう。
長らくプール専門だったのだけど、いきなりスタジオのマスターズクラスに半年ほど通って強引に脚力を付け、少し走れるようになったのだ。
これまで少し走ると膝が痛くなっていて、スタジオのマスターズクラスでも最初の1か月くらい痛くて「こりゃだめだ、もうやめよう」と思いつつも続けていたら、3か月ほどすると痛みも消え、普通に走れるようになっていたという次第。
そうなると今まであきらめていた分、走るのが楽しい。まともに走った記憶は高校の頃くらいなので、少し慎重に時速8キロくらいで(まあ、走ってるとは言えないけどね)どれくらい走れるだろうとやってみたら、あっというまに3キロ走れてびっくり。1キロ以上なんて別世界の話だと思ってましたから、私。人生で1キロ以上走ったのは初めてじゃないだろうか。
昨日もラン3キロ&スイム1キロ。
若干膝に痛みがあるのが不安だけど、しばらく楽しめそう。

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2008年11月09日

スケジュール管理進化論

アナログ手帳の良さの話をしたばかりで恐縮ですが、PCのスケジュール管理の話。
この前買った手帳はスケジュール帳ではなくて罫線が引いてあるだけのメモ帳で、紙の手帳は結局これに尽きる。これまでは新潮社の「マイブック」を使っていたんだけど、あれは少しばかり大きくて重い。
常に持つものっていうのはちょっとしたことが気になります。ほんのちょっとの使い勝手で使わなくなったり。
スケジュール管理っていうPCの機能も同じで、最も古く最も難しい課題のような気がする。一般向けのPCが登場した十数年前「これでスケジュール管理の悩みはなくなる」って随分言われたけど、全然なくなってない。私もずいぶんスケジュールソフトに頭を悩まし、モバイル用のノートPCやパームなんかのギア類に投資した。
中でもpalmは相当長い間お世話になってかなり満足していたんだけど、携帯の高機能化やなんやかやで結局姿を消してしまった。クリエを展開したソニーが多機能を盛り込みすぎて携帯には不向きなくらいデカくて重くしたのもパーム離れを進めちゃったのかもしれない。

macに乗り換えてからは、mac標準のicalを使っていた。これはこれでいろいろ問題があるんだけど、ひと手間かけると携帯とシンクロできるのでかなり便利だった。ただ、シンクロするのに数分かかって少々ストレスがあるのと、何より私の携帯は最大300件までしかスケジュール登録できないことが判明。これはないよなあ。「スケジュールがいっぱいです」とエラーメッセージが出たときは何かの間違いじゃないかと思った。よく見ると、過去のスケジュールを一括消去する機能があるんだけど、スケジュール帳というのはこれからの予定だけじゃなくて過去の予定のアーカイブスも大事だと思うんだけど。それとも世の中の人ってそんなに前だけ向いて生きてるの?
だから携帯から過去のスケジュールを消すとmac上からも消えることに。シンクロ良し悪し(涙)。

そういうわけで最近抜本的見直しを迫られ、今更ながらGカレンダーを導入。
Gカレンダーとicalを同期させるのはシェアウェアが必要だったのだけれど、7月の末頃、GoogleがCalDAV対応になって、何も買わなくても同期が可能になったというのを聞いてやってみました。
やってみると設定はものすごく簡単。ical側のアカウント設定を必要なカレンダー分だけ追加してやるだけ。ホントにそれだけ。
で、「Gカレンダーは携帯からアクセスできるはずだから……、これなら今までとほぼ同じように使えるかな」と思ったら、携帯からは参照しかできない!

パソコンのスケジュール管理の最大の問題はここ。PCでスケジュール管理ソフトを使っても、スケジュールというのはいつ追加されるかわからない。バーで飲んでるときに(無粋だけど)仕事の電話がかかってくるかもしれない。そんな時ノートPCいちいち開いていられない。結局パームや携帯を使うか、紙のスケジュール帳を併用することになってしまう。
なのに携帯からは入力できないなんてグーグルのわりにしょっぱいなあ、と思ってたらありました。
ものすごく便利なので有名だと思うんだけど、あんまりまわりでは知られていなかったので紹介しておきます。もちろん、ウィンドウズ使っている人も使えます、当たり前だけど。
「Google Calendar Mobile Gateway」
これを使うと、スケジュールの入力、編集はもちろん、表示もとても見やすいし、カスタマイズも可能です。おまけにGoogleのAuthSub認証を使ってるので、Gメールを携帯で確認するときのようなGoogleのID・パスワードを確認する手間も必要なし。サクサクとアクセスできます。
うーん、感動。

で、現在の私のスケジュール管理は、「Gカレンダー」と「ical」(自宅+仕事場)と「携帯」と「ipod」が本人も気づかない間にシンクロされています。
「とりあえず手元にあるもので確認&メモできて、データを同期させる手間が要らない」という私のスケジュール管理の理想に少し近づいたかな。
posted by 紅灯 at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | win→mac | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月07日

手帳の手ざわり

きのうサントリーの広報の人と飲む機会があり、いろいろ楽しい話を聞いたんですが、そのうちになにやら紙袋を取り出した。
「紅灯さん、いい手帳、買ったんですよ」
言いながら2冊の手帳をカウンターに並べる。
内ポケットにすんなり入りそうないいサイズ。それぞれベージュとモスグリーンの上品な色。
「触ってみて」と促されるままに取り上げてみると、指先に少しばかり引っかかりながらもすらりと滑る気持ちいい感触が残る。思わず「あ、これ」と声が出る。
「でしょ、でしょう」と嬉しそうなサントリーのAさん。
「麻張りなんですよ、これ。今時なかなかないですよ」
うーむ、うらやましい。というか欲しい。だけど東京ならまあこんなのも手にはいるよな、と思いかけて「うん?」と気づく。今日買ってきたということは──。
「そうですよ紅灯さん、並木坂にある老舗の文具店で売ってるんですよ」
並木坂の文具店。創業明治39年、近藤文具店といえば、私の仕事場のすぐ近所ではないか。
「えー、こんなの売ってるの?」
どっちが地元かわかりゃしない。
訊くと、出張に来るたびまとめ買いしていくという。一冊600円。安い。
さっそくきょう私も買いに行きました。地元としては悔しいけど、欲しいんだもん。
明治からそのままのような(わけはない、と思うが)店内は、今時の文具店とは全く違う。和紙の便せん各種が平台で陳列してあったりする。ざっと見渡しても見つからないので、店の方に訊くと「ああ、麻のね。これです」。レジ横にありました。やっぱり人気商品なのかな。
Aさんがきのう2冊買っていったので、のこり3冊くらいしかなかったんですが、「最近値上げしたんだけどね、こっちのは前の値段で売ってたやつだから前の値段でいいよ」と550円で売ってくれました。Aさんごめん。
それにしても、今時自前で手帳を作っている「町の文房具店」って、どれくらいに減ってしまったんだろう。

posted by 紅灯 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月05日

世界の闇の中から

映画「ノー・カントリー」をみて、原作のコーマック・マッカーシー「血と暴力の国」を読んだ。
「ノー・カントリー」は去年のアカデミー作品賞を受賞した話題作だが、近年のアカデミー作品としては出色というべきだろう。
コーエン兄弟の作品らしい静かな緊張感が全編を覆う映画だけれども、後半がらりと雰囲気が変わるところがあり、ちょっと理解に苦しんで原作を買い求めた。

ストーリーは単純だ。
荒野の真ん中で男が大金と麻薬と死体と死にかけているメキシコ人に遭遇する。
男は金を持って逃げることを決意するが、組織に雇われた「異常な」殺し屋が男を追う。その二人の足取りを実直な老保安官がたどる。
ただ、このストーリー自体に余り意味はない。要は、「この国」に生きると言うこと、現代のアメリカ社会で生きていくと言うことはどういうことなのかをバイオレンスと愛情とにまみれながら描いていく。
映画はビリビリした緊張が息をつくことのできない人生のあがきを感じさせるし、原作の方は徹底して即物的な描写だけをつなげながら詩情というしかない筆致で登場人物たちの人生を描き出す。
映画も素晴らしかったが、原作の素晴らしさはそれ以上だ。全くタイプは違うが、初めてアービングを読んだ時を思い出した。こんな小説があるのかと、今までマッカーシーを読まなかったことを後悔した。
物語の終盤、殺し屋が男の妻を「無意味に」殺そうとする場面を引用してみる。

「カーラ・ジーンは最後にもう一度シュガーを見た。こんなことしなくていいのに。こんなことしなくていいのに。こんなことしなくていいのに。
 シュガーは首を振った。おまえはおれに自分を弱くしろと頼んでいるわけだがそれは絶対にできない。おれの生き方は一つしかない。それは特例を許容しないんだ。コイン投げは特例を認めるかもしれない。ちょっとした便宜を図ってやるために。ほとんどの人はおれのような人間が存在しうるとは信じない。ほとんどの人にとって何が問題かはわかるだろう。自分が存在を認めたがらない者に打ち勝つのは困難だということだ。わかるか?」

そしてまた別の場面。老保安官に、さらに歳を取っている叔父が語りかける。

「だからおれはいつも同じことを考える。なぜみんなこの国にはうんと責任があると思わないんだ?でも思わないんだな。国ってのはただの土地だから何もしないとも言えるがそんな言いぐさにはあんまり意味がない。わしは以前ある男がショットガンで自分のピックアップ・トラックを撃つのを見たことがあるよ。トラックが何かしたと思ったんだろう。この国はあっさり人を殺しちまうがそれでもみんなこの国を愛してるんだ。わしの言ってることがわかるかね?
 わかる気がしますよ。叔父さんはこの国を愛してますか?
 そう言っていいだろうな。しかし言っとくがこのわしは石ころを詰めた箱みたいに無知だから言ってることは真に受けんほうがいいよ。」
会話の「」と読点がまったくない文体が体にしみこんでくる。素晴らしい。

この作品の正確なタイトルは「no country for old man」だ。「老人の住む国にあらず」アメリカ。
きわめて厳しく生きづらい国でうごめく必死の人生がこれでもかと語られるこの物語は、闇の中で微かに、ごく微かに灯る希望の火のようなものを暗喩して終わる。

アメリカという国が、厳しさ生きづらさを世界にまき散らした8年間がやっと終わる。
その先に微かな希望があるのかどうか、少なくとも今は期待を持ってバラク・オバマをみていたい。

posted by 紅灯 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月03日

血液型で見る振り込め詐欺と大統領選

三連休最終日、相変わらずぶつぶつと仕事しつつTVを横目で眺めていると、「アサデス」でちょっと面白い実験をやってました。
「アサデス」っていうのは、九州朝日放送が毎朝放送している若い主婦層がターゲットの情報番組で、九州限定。
血液型がどうこう言っていたので、「またか」とうんざりしてチャンネルを変えようとしたら、なんだか様子がちょっと違う。
最初に道行く人や番組出演者に「血液型性格判断を信じますか?」と問いかけ、そのうち「信じる」と答えた人に質問する。例えば、「O型」と答えた人には「これがO型の特徴!」と題してO型の特徴をいくつか記したボードを見せて「いくつ当たってますか?」と聞く。でも実はこれ、本当は他の(この場合はO型以外の)血液型の特徴とされる項目を集めたもの。
ところがボードを見た人は「あ、当たってる!」と口々に○を付けていく。
この結果、実に100パーセントの人がボードを見て「当たっている」と回答したという次第。
ここまでならなんとなく聞いたことがあるようなテストだけど、さらに番組では、実験に協力した人に「実は嘘でした」とネタばらしをしたあとで、もう一回最初の質問をしたんです。
「それでも血液型性格判断を信じますか?」と。

驚くなかれ、結局実験の前と後でほとんど差は出なかったんですな。「信じる」と答えた人の数はほとんど減らなかったんです。
血液型占いが当たっていないということを身をもって経験したのに(それもかなり恥ずかしい方法で)、それでも信じ続けるというこの心理、大げさに言えば人間の心の闇の一端です。
私の周囲にも「ねえねえ、血液型何?」などと訊いてくる人たちがいて、その度に「頭悪く見えるからやめた方がいいよ」と答え、それでもしつこく「血液型占いは正しい」という人には噛んで含めるように「論理的に」答えていたのですが、その人たちが血液型占いを話題にすることをやめた気配は一向にありません。
それはなぜなのか、よく分かった気がしました。

よく「人は自分の信じたいことしか信じない」と言いますが、必ずしもこれは正しくない。例えば科学者や哲学者は自分の認識を含めて対象を疑うところから研究の第一歩が始まるからです。
しかし「自分が信じたいことしか信じない」人がこの世界において多数を占めているのは間違いないでしょう。いつの世でもそういう人たちが多数を占めるから少数派が迫害を受けるわけです。そうでなければ差別や迫害など起きない。
その「信じること」はもう論理でも何でもない。特定の血液型だからその人の性格を決めつける人は、オバマの政策がどんなに良くても「黒人だから」投票しない人とその構造は何ら変わりがないわけです。

そういう「論理」で動かない人は、「論理」で誤謬を指摘されても動じません。「だから何?」ってやつですね。
まさにこの心理を実地に金儲けに応用したのが振り込め詐欺だと思います。
金融機関の窓口で、行員などから「それは振り込め詐欺ですよ!」と1時間以上も説得されたのに結局金を、それも数百万円という大金を振り込んでしまったという話を最近よく聞きます。
その度に「なんで?」「バカだなあ」という反応が起きますが、その被害者の中では正しいのは自分で、間違っているのは行員(=論理)であり、「自分が信じてしまったもの」に間違いはないんですから矛盾はないわけです。ひょっとしたら、詐欺だと分かった後も後悔していない人もいるかもしれません。「お金は損したけど、本当の息子に何もなくてよかった」とかね。そういう人に「それは違う」と説明して納得して貰う自信は私にはありません。

ようやくブッシュの時代が終わろうとしています。
「ブッシュ後の世界」に淡い希望を抱いている私は、果たしてバラク・オバマがこの「闇」に勝てるのか、少し心配です。

posted by 紅灯 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする