2010年03月06日

ガリ版の日々

NHKの番組で今時のガリ版事情を取り上げていました。
って、ガリ版ご存じでしょうか?
こういうものなんです・・・とネットにすぐ頼る態度はいかがなものかと思いますが、しかし全然知らない人にガリ版を一から説明するのは難しいぞ。やってみよう。
まず、ロウを塗ったごく薄い油紙に字を書く。この場合「書く」というのは「鉄筆」という先が針金状になった器具で字を彫り込んでいく。原稿が完成したらこれを木製のフレームにセットして、下に紙を置く。そこへインクを流し込みローラーでごろごろやるとロウを削った部分だけインクが転写され、刷り上がるというわけ。

小学生でもその仕組みがよく理解できるというまさにアナログ印刷の極北でありまして、実際私達が小中学校の頃には学校で配られるプリント・テストというのはほぼすべてこれでありました(そういえば小学校の低学年の頃には青写真というのもあったぞ)。先生の字の癖がそのまま出てしまうので、○○先生のプリントは読みにくい!などと言われ、今なら「ウチのクラスは先生の悪筆のおかげで勉強が遅れる!」などと親が学校に怒鳴り込んでくるのではないかというような実に昭和らしいのんびりした印刷装置でもありました。
何しろパソコンのプリンターどころか、コピー機だってまったく普及していない時代ですからね。

このガリ版が欲しかったんです。
中学生の頃、私は友人と2人で新聞を作っていました。新聞といっても新聞部ではなく、2人でルーズリーフに書いた回覧新聞。同じ電車で遠距離通学していた2人が暇つぶしに学校でのことなどをおもしろおかしく書いた新聞です。主に僕が原稿を、彼はデザインや絵やマンガを担当していました。最初はその電車を利用する同級生の間だけでまわし読みされていたのですが、そのうち文字通り口コミで広がり、ついには学校中で回覧され、一週間後に戻ってくる頃にはぼろぼろになっているという状況でありました。

人気が出てくると作り手も張り切るのはいつの世も同じ。
高校受験を控えた中学3年の冬休み、私達は相談しました。中学生活もあと数ヶ月。ここでひとつ「正月特別版」を出そうじゃないか。記念になるようにいつもの回覧じゃなく、ガリ版刷りにしないか?
しかし部活でもなくアングラでやってる新聞に学校のガリ版を貸してくれなんて言えません。だいたい受験直前の12月にそんなことやってるってばれたら怒られる。
文房具屋をのぞいて見ましたが、高い。とても中学生の小遣いで買えるものじゃありません。諦めかけたその時、ガリ版に使うロウ紙が目に入りました。1枚数円。安いじゃないか。鉄筆も数百円。高いのはガリ版本体だけ。
そこでひらめきました。なんと言っても小学生でも理解できるガリ版の仕組みですからね。
ガリ版を作ればいいんだと。

とはいえ、一応は受験生の身。材木買ってきてノコギリで…なんて派手なことはさすがにできません。ただでも受験前にこの子たちはなにやってるのと親から朝に晩に説教くらってるのに、いきなり大工の真似事など始めたら進路を考え直したのかと思われかねません。
原理だけでいえばロウ紙とインク、それに紙さえあればいいわけです。ロウ紙を張るフレームはなんでもいいんじゃないか。
というわけでタンスの上で眠っているもらい物のお菓子の箱を引っ張り出し、フタをくりぬきました。これにロウ紙をセロテープで張る。残った箱をひっくり返し紙を載せる台にします。おお、簡単に(そしてタダで)ガリ版の完成です。
早速試し刷り。
インクを載せてローラーをかけると、ちゃんと印刷できるじゃないですか。
おお、やった!と早速2枚目。その途端、ぐちゃぐちゃとイヤな音が。見るとロウ紙がローラーに巻き付いて惨憺たる有様。
インクは油性なのでセロテープと相性が悪く、すぐに剥がれてしまったわけです。
一枚印刷するのにロウ紙1枚彫っていたのでは何の意味もないことはさすがに頭の悪い中学生でもわかります。試行錯誤の末ビニールテープで固定した後厚紙を置いてホチキスで留めるということでクリア。
ところが今度は紙のフレームでは耐久性がなく、5,6回も刷ると歪んでインクが隙間から入り込み、紙が真っ黒になってしまいます。なんとか補強を終える頃には手も顔もそこいらもインクでべとべと。
ようやく6頁ほどの新聞100部が完成した頃には年が明けていたという次第。

受験の方はどうなったかというと、めでたく2人とも第一志望の私立は落ち、揃って同じ公立高校に進学しました。受験日の前夜も2人で新聞作ってましたから当然と言えば当然の結果です。それから数十年が経ち、私は文章を書くことが生業に、手先が器用だった彼は医者になりましたから、時というのは流れるように流れるものです。

そして情報を発信するという手段は、今や飛躍的な発展を遂げました。
ただ、ホームページやブログやツイッターが出る度にその仕組みや使い方に熱中する自分に気づくと、ガリ版を何とか手作りできないか夢中になっていたあの頃から少しも成長していないのではないかと思うのです。




ラベル:ガリ版 謄写版
posted by 紅灯 at 17:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月10日

暴発ツイッター

昨日、ツイッターで2つのびっくりする体験をしました。
1つはなかなか面白い体験で、もう1つは大失敗。
ツイッターをはじめて3ヶ月。何事もはじめて3ヶ月くらいで油断して失敗すると言いますが、まさにその通り。

ではまず面白かったことから。
商売柄すべての新聞に目を通します。朝一番には政経社面の見出しをざっと見て抜かれていないか確認(本当は抜かれていれば明け方に担当者から電話が架かってくるんだけど、まあ念のため)、じっくり読むのは昼飯の時。昨日も昼を食べながら読売新聞の人生相談を見ていたら目が釘付けになりました。あ、読売の人生相談は面白いですよ。質問がエキセントリックなことが多いのもあるけれど、何より回答が気が利いていて。かなり無理難題な質問に「いったいどう答えるんだろう」と思って読むと「おお、こう来たか」ってな感じで、これぞ文章芸の世界。

そして昨日はこの回答が素晴らしかった。「彼氏が二股かけてる。別れたいけど別れられない」という、まあよくある、けれども回答が難しいこの質問に、作家の高橋秀実さんが回答。これが見事なんだなあ。リンク張っておきますが、新聞記事なのでそのうち消えると思うので、引用しておきます。
まず冒頭、「あなたもお考えになったように、その彼とは即刻別れてください。」とバッサリ。
畳みかけるように続きます。「別れることにためらいがあるなら『捨てる』と思ってください。そう、ゴミのように。ゴミというのは収集日が決まっていますから、例えば今週の木曜日と決めたら、その日に捨てる。リサイクルに回すのではなくきっぱりと捨ててしまうのです。」
そして「もしかするとあなたは彼女がいるから彼のことがあきらめられないのかもしれません。その彼女が彼の魅力を保証しており、それゆえ価値があると思っているのではないでしょうか。家電にたとえるなら、もはや不用なのに保証書だけ有効になっているようなもの。有効期限が切れても、また別の彼女をつくることは間違いないので、この際保証書もろとも処分してください。」と見事な比喩。トドメには「ゴミがなくなってもさびしくなんかありません。部屋も心も空きスペースができれば、新しいモノに目が向くはず。どうか恋心を大切にしてください。」。
どうですか、この潔さ、格好良さ。

「これは誰かに読ませたいなあ」と思い、そう、ツイッターがあるじゃんと記事のアドレスを調べ、ツイート。
で、昼飯の残りを片付けてコーヒーでも飲んで、「どうなったかな、誰か見てくれたかな」と見てみると。
RT、RT、RT。ものすごい数のRTがついてるではないですか。
あ、説明しておきますと、RTというのはツイートの返信方法の一種で、通常の返信は1対1が基本(+両者をフォローしている人も見ることができる)なのに対し、RTを付けると、返信をした人をフォローしている人すべてが見ることができます。つまりこの場合、Aさんが私の最初のツイートをRTすると、私をフォローしていないAさんのフォロワーすべてが私のツイートを見ることができるわけです。
15分くらいの間に何十というRTが返ってきました。「いいですなあ」「実にいい」「見事」などというコメントとともに。
もちろんRTせずに読んでいる人はその何十倍、何百倍いますし、フォロワーによっては何千・何万倍ということにもなるわけです。
こんなにRTを返されたのは初めてで、ビックリするとともにこれはなかなか楽しいなあと思ったわけです。

さて、その夜。
深夜に帰宅してPCに向かい、原稿など書きつつツイッターも起動。この最近の癖で原稿のスピードが著しく落ちている気もするのですが、まあ、そこはそこ。特に深夜帯に入ると、最近は漫画家のいしかわじゅんさんなどのツイートが、まるでショウタイムとでも言うべき活況を呈すので、誘惑に勝てません。昔のオールナイトニッポンの投書を出したり読まれたりというのをリアルタイムでやってるような感覚とでも言えば近いでしょうか。ディスプレイの片隅に次々浮かぶいろんな方のツイートをちらちら眺めつつ、原稿書きつつ、さらにDMで某ライターさんなどとやりとりしておりました(実はさらにワンセグのTVの音声も流れてたりする。もうこれは原稿書いてるとは言えない)。

と、新たなツイートが。「……あ、そうか。まあぐりとぐらも犬だし。」
おお、いしかわさんご本人だ。えっ、ぐりとぐらって犬だったの?。
と反応した私は、そのまま反射的にキーボードを叩いたのです。
「え、ネズミだと思ってました。我が人生に大きな間違いが RT @ishikawajun: あ、そうか。まあぐりとぐらも犬だし。」
これが午前1時3分。
そのまま原稿など書いていると、すぐに反応が。いしかわさんではありません。私のツイートをRTした方です。
「えっ!!ネズミじゃないの? RT @koutouwinter: え、ネズミだと思ってました。我が人生に大きな間違いが RT …」
RTがRTを呼ぶ。
「ネズミじゃないの?!RT @*****: えっ!!ネズミじゃないの? RT @koutouwinter: え、ネズミだと思ってました。」
私と言えば、「あ、反応あるなあ、今日の昼みたい」とまだのんびり。
と、ここで当のいしかわさんご本人が登場。
「そうじゃなくて、ぐりとぐらという名前をつけられた2匹の犬が居るって話。RT …」
そうです。私はいしかわさんの前のツイートをよく読んでおらず、ふっと浮かんだツイートだけ見て勘違いしちゃったわけです。
「やばいっ」。とにかく慌てた私は、可能な限りのスピードでこのいしかわさんのツイートをRT。
「大変失礼しました。そそっかしいRT。石川さんにも、瞬く間に広がったRTの皆様にも…RT@ishikawajun」

この時点で午前1時8分。最初の勘違いツイートから5分しか経ってません。
ところが、遅かった。完全に手遅れ。
私をRTした方が非常に多くのフォロワーを抱える方ということも手伝って、その後いしかわさんのもとには山のような問い合わせRTが届いたのでした。もちろんみんな「ぐりとぐらって犬だったの?」一色。
その度にいしかわさんは「途中から話を聞くな−」「前のTLを読め!」とそれまでのTL(タイムライン)の雰囲気を壊さない(マンガ夜話のあのぶっきら優しい)調子で応対され、お詫びのツイートを入れた私にも「面白かったー」「一瞬だったね。Twitterの新たな一面を見たよ。」と優しく声をかけて頂きました。

ツイッターに慣れてきたところに昼間RTで面白い経験して、調子に乗っていた私の責任が第一なのは言うまでもありません。
が、いしかわさんも書かれたように、「これがツイッターなんだなあ」とつくづく感じました。特に普段他愛のないことつぶやいてたりするとそれに慣れてしまって、ツイッターのタイムラインが「日常」化してしまい、時間差なく伝播するネットの怖さをふと忘れてたりする。
今回はいしかわさんの優しさに助けられましたが、私の場合、仕事関係でもツイッター使っていますので2度3度と繰り返すわけにはいきません。暴発騒ぎはいい教訓でした。

そして何より、本当にいしかわじゅんさんにはご迷惑をおかけしました。


ラベル:twitter
posted by 紅灯 at 21:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月08日

2割の進化論

ドーキンスの新刊「進化の存在証明」の邦訳が出た。
ドーキンスがこの本を書いた背景には、進化論を信じていないアメリカ人が多いことがある。これはよく知られた話で、たとえば去年発表された調査では60%のアメリカ人が進化論を信じていない。世界は神が作りたもうたまま今の姿があるという、ブッシュのようなキリスト教原理主義者がうじゃうじゃいるわけだ。こうした宗教指導者たちは進化論への攻撃を強めており、公教育で進化論を教えないよう法律を変えたり、児童生徒を組織して進化論を教える教師を吊し上げるよう仕向けている。

こうした宗教的・非科学的非寛容さを徹底して攻撃するドーキンスには本当に頭が下がる。既に世界最高レベルの科学者の地位をほしいままにしているのだから、他の科学者のように「あほの戯言」と無視して安穏と研究生活に没頭することもまったく可能なのに。目の前にある科学的危機を放ってはおけないんだろうな(日本ではなぜか竹内久美子さんとかいうトンデモ本作者が解説本書いたりしている不思議なことになってますが。本人知ったら怒るだろうな)。
それにしても超大国の知的劣化は目を覆うばかりで、医療制度改革への攻撃もそう。「税金を使うな!」「自由を奪うな!」とか言って保険業界の口車に乗せられ踊らされているアメリカの人たちを見るたびに、TVからしか情報を得なくなった人々の末路は恐ろしいとつくづく思う。

さて、アメリカ人の6割が進化論を信じていないのはドーキンスさんにまかせるとして、翻って日本はどうか。
同じデータを見ると、8割の人たちが進化論を信じている。「さすが日本」…なのだろうか。
残りの2割って、進化論を疑ってるの?それってかなり衝撃的な数字じゃないでしょうか。
そりゃアメリカと比べればまともな数字だろうけど、2割だよ。5人に1人が進化論懐疑派だって、これはかなり多く感じるのは私だけでしょうか。

気になるのは、日本の場合、この2割の人たちはどういう主張を持っているのかってこと。アメリカの場合はキリスト教原理主義、イスラムならイスラム教原理主義と、世界各地では宗教と密接にかかわっているわけでありますが、日本の場合はどうなのか。イザナギノミコトとか神話を真剣に信じている人が5人に1人もいるとは思えないしなあ。だいたい神話を詳しく知ってる人がそもそも5人に1人もいないだろうし。
期待を込めて考えれば、「進化論も悪くない考えだけど、もっと正鵠を得た進化の過程が今後解明されるのではないか」という慎重な思想が多いのではとも思える。これなら何も心配はいらないのだけれど。

一番心配なのは、ほら、アレですよ。

「進化論?猿からヒトになっただあ?」
「そんな自虐史観を信じているから日本はダメになったんだ!」

ま、まさか。これじゃないよね。



ラベル:ドーキンス
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2010年02月06日

出版1か月

本の刊行からひと月。ちみちみと営業したりしてます。
この手の本は大きな書店じゃないと置く場所ないですからね。値段も結構高めだし。
驚いたのは、amazonの「人権問題」カテゴリーで6位にランキングしたこと(2月6日19:00)。
「人権問題」本というカテがあるのも初めて知りましたが、1位の辛淑玉・野中広務さんをはじめ、塩見鮮一郎さんとか濃厚な方が沢山で恐れ多い。私の上は小林よしのりさんだし。

amazonではすでに2件の書評を頂いていて、その影響もあったのでしょう。ありがたいことです。
書評を頂いたお二人とも直接存じ上げないのですが、「浦辺登」さんという方はネット書評では知られた方だそうです。
「まだこの国のマスコミは骨の髄から腐ってはいないことを実感」という言葉を頂戴しました。「表には出てこないかもしれないが、いろいろと政治的にも圧力があったのではと思える」ともありまして、これについては、ハイ、ありました。とお答えしておきます(苦笑)。ちなみにこの方にはBK1にも書評を頂いているのですが、こちらはまた違う文章でありまして本当に頭が下がります。

もう一人の方には「過ちを素直に認め、現状を正しく認識することから問題の解決が始まるという教訓を忘れてはならない。それは官僚組織だけでなく、多くの民間企業にもあてはまる。そして中国やインドなど高度経済成長期を迎えている新興国の人たちにもこの本で書かれている内容が伝わってほしい」と書いて頂いて、まさに本を通して訴えたかったことの一つです。ありがとうございます。

また1月26日付の「熊本日日新聞」朝刊に2段の囲み記事で載りました。本と私の顔写真付き。リンク張りましたが会員登録制なので引用しておきます。
「NHK記者が「なぜ水俣病は解決できないのか」を出版
 1991年のNHK入局以来、水俣病問題の取材を続ける東島大記者(43)=北九州放送局=が「なぜ水俣病は解決できないのか」=写真=を弦書房(福岡市)から出版した。題名の問いに対する関係者の答えが詰まっている。
 水俣病の公式確認から50年を迎えた2006年、東島記者ら当時の熊本放送局のチームが制作し、50回にわたって放映したインタビュー番組「水俣病証言録」が土台。これに東島記者の追加取材分を補足、再構成した。
 登場するのは被害者や支援者、研究者、原因企業チッソ関係者ら47人。水俣病問題にかかわる代表的存在の人たちばかりで東島記者は「詳しくない人が水俣病問題を知り、何が問題なのか理解してもらえる」と言う。巻末には1906年から09年9月までの主要な出来事を収録。単なる年表に終わらず、ボリュームのある解説が加えてあり、資料性も高い。販売価格は2205円。(石貫謹也)」
石貫さん、ありがとうございます。

それから、明日の長崎新聞の書評欄に紹介記事が載るそうです。長崎の方、ご覧下さいませ。


ラベル:水俣病
posted by 紅灯 at 21:14| 水俣病 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月22日

あれから10年

徳島県の吉野川第十堰をめぐる住民投票から、明日で十年になるのだそうだ。
もうそんなに経つのか、早いなあというのが実感だ。
月並みな言い方だけど、あの日のことはつい昨日みたいに思い出せる。

吉野川の第十堰というのは、江戸時代に作られた石積みの堰だ。流れを完全に止めず、大雨の時には自然に流量が調節されて洪水を防ぎ、普段は多くの生き物が生息するという、先人の知恵が生かされた堰だ(ちなみに「第十」というのは地名です。十番目の堰という意味ではありませんよ)。
二百年以上経っても生き続けているこの堰を、国が老朽化と洪水対策を理由に取り壊し、下流に1000億円をかけて(出た)巨大な可動式の堰の建設するという計画を発表。
推進する自民党と建設・土木業者、これに反発する市民グループというわかりやすい構図を経て、1998年、市民グループは住民投票の実施を求め署名を呼びかける。その結果、徳島市の有権者の半数近いの署名が集まり、市議会に住民投票条例の制定を求めた。
ところが建設推進派が多数を占める市議会は条例案を否決。
このため市民グループは市議会議員選挙に独自候補を擁立し3人が当選、その結果、定員40人の市議会のうち住民投票賛成派が22人を占め勢力が逆転したのだ。
そして6月、日本で初めて国の河川事業を問う住民投票条例が成立した。

ところが敵もさるもの。この条例案には仕掛けがしてあったんですな。
なんと、「投票率が50パーセントに達しなければ無効とする」という条項があったのであります。投票率が50パーセントに満たなければ開票すらされないという異常な条件に対抗するため、市民グループはボランティアの応援を頼み、有権者のおよそ半数の家にチラシを配ったり、辻立ちを繰り返した。なんと言っても、直前の市長選挙の投票率は30パーセント台だったのだ。

一方可動堰推進派は、組織力を生かして建設を求める署名を全県下で集め(吉野川と関係ないところも含め)建設大臣に提出する一方、「住民投票に行かないよう」呼びかける。この動きを市の選挙管理委員会はたしなめるどころか「投票を強制するようなものでもないので、有権者の判断に任せたい」と耳を疑うような談話を発表した。

そして迎えた1月23日の投票日(そういえば『1,2,3で投票に行こう!』って呼びかけてたなあ)。
よく晴れて寒い日曜の朝、街は静かだった。
静かだったけど、街中が言いしれぬ高揚感、連帯感に包まれていたのをよく憶えている。
一人また一人と投票所へ足を運ぶ人たち。
「自分達の一票が確実にこの街の未来を決めるんだ」という責任感と誇りでつながっていた。
「50パーセントを超えなければ開票さえしない」という縛りが、かえって徳島の人々の誇りを目覚めさせたのではないか、そう思いましたね。
そうして住民投票の結果よりまず、投票率は50パーセントを超えるのか、投票は成立するのか、徳島市民は固唾を呑んで見守った。
午後7時すぎ、選管は投票率が50パーセントを超えたことを発表、投票が成立した。
そして開票。
その結果──
可動堰建設に反対が10万2700票。賛成は9300票。
圧倒的な結果が示され、国の河川行政にNOが突きつけられた。

この徳島のケースが、住民投票で行政を監視するというシステムの先鞭を付けたとされている。
やはりそれは、この徳島のケースが、政党やイデオロギー色がほとんど無い純粋な市民運動から出発し、最後までそれを貫いたという点が大きい。姫野雅義さんという沈着冷静で無色、そして全くぶれない強いリーダーシップを持った方がいたということもある。
もちろん批判もあった。「なんでもかんでも住民投票というのは間接民主主義を否定するものだ」という批判は十分に理解できる。
当時の建設相は「民主主義の誤作動だ」と発言した(このとき「誤作動しているのは建設相だ」とやり返したのは菅直人氏である)。

しかし、投票箱を開封すらせず圧殺しようとした現実を前にして、民主主義を語る資格はいったい誰にあるだろう。
自分の一票で何かを変えられる。
現在に通じる小さな芽が、この時徳島で生まれていたのかもしれない。

私が最後に第十堰を見てから7年くらい経つ。
堰をなめらかに越えてゆく川の流れにたゆたう陽光。耳に心地よいせせらぎの音と波に遊ぶ小鳥の群れ。
あの素晴らしい景色は今も健在なのだと思うと自然に笑みが浮かぶ。
徳島の人々に感謝。



ラベル:第十堰
posted by 紅灯 at 18:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月21日

こいつは便利!Dropbox

久々にPC関係の話。
mac環境に移行してそれまで馴染んだ一太郎を捨てざるを得なくなり、エルゴのegwordに感動したもののすぐに店じまいされてしまい、macの日本語ワープロ環境に嘆いたのもつかの間、macjournalが大変に使いやすいとわかり激賞したものの、マックのクラウド「Mobileme」の同期に非常に問題があって頭を抱えている、というのがこれまでの私の原稿執筆環境の変遷というか歴史であります。
こうやって書いてみると、3年も経たない間にこれだけのああだこうだが繰り返されているわけで、ホントにPCなるものは僕らの生活を便利にしてくれているのだろうかといういつもの思いがチラチラしてしまう。ま、便利になってる面が沢山あるのは間違いないんだけどね。

で、macjournal。
これはジャンルで分けるとテキストエディタになるのかな。本当によくできていて、テキストベタうちはもちろん、どんなファイルでも取りあえずぶち込んでおけるし、アウトラインプロセッサとしても便利。この文もmacjournalで書いているのだけれど、とにかく使いやすい。全画面での入力は大変気持ちいいし、この全画面機能、実は私達の業界では簡易プロンプターとしても使える。ファイルの管理も楽だし細かいところも行き届いているしと、もう手放せないぞと思ってたら重大な問題が。

上にも書いたように、「mobileme」との同期が非常に不安定なのだ。
mobilemeというのはmacのサービスのひとつで、アドレス帳やスケジュールなどをすべてのコンピューター間で自動同期してくれるというもの。実はmacjournalはこのmobilemeに同期している。つまり仕事場で原稿を途中まで書いて、続きをスタバでmacbookで書いて、あとは自宅のmacで書くということがカンタン!というはずなのだが、この同期が非常に不安定。文書ファイルが同期されたり同期されなかったりくらいならまだしも、最悪なのは逆に上書きされてしまう。
つまり、一生懸命書いた原稿が古いデータに上書きされ、完全に消去されてしまうというこれ以上はないくらいの悲劇が起きてしまうのだ。
私これ、かなり頻繁に経験していて、一番ひどいのは500枚くらいの原稿が全部消えたことがあった。この時はさすがにバックアップをとっていたけれど、いくつも章に分けたりしていたので、バックアップから復旧させるのも一苦労だった。このほか、書き上げた一章分が数時間後に消えていたなんてことは数え切れない。

どういう訳かこれは人によるみたいで、私と同じように四苦八苦している人もいれば、まったく問題なしという人もいる。
度々酷い目にあっても、それでもmacjournalを使い続けているのは、ひとえにそれ以外の機能が素晴らしいからだけど、ここへきてファイルの読み込み自体がおかしくなるなどの不具合が目立ってきた(なんなんだろうなあ、原因不明)。
さすがにこのまま使ってるのはまずいと思い始めた頃、教えてもらったんです、「Dropbox」の存在を。

これは便利ですよお。何で今まで知らなかったんだと激しく後悔しました。
ツールをダウンロードするとネット上に2Gのストレージが確保されます。同時に自分のPCに「My Dropbox」というフォルダができて、ここにデータを置いておくと自動的にネット上のストレージに同期されます。macでもwinでも使用可ですから、自分のあらゆるPCに導入しておけば、常に最新のファイルで作業できるというわけ。
ファイルの更新は差分なので、更新に要する時間は非常に早い。モバイルで接続していてもほとんどストレスはありません。通常はdropboxの存在すら忘れている状態。
macbookで外で作業しているような場合には、ネットに接続した時点で自動的に更新されます。
で、これだけ便利なのに2Gまではフリー。素晴らしい。

早速macjournalのファイルをDropboxへ。以上、問題解決。
このDropboxによってmacjournalの同期の呪いから解き放たれた私は、ついに、いつでもどこでも最新の状態のmacjournalで原稿を書くという夢を実現したのでありました。



posted by 紅灯 at 00:44| win→mac | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月15日

発売開始!

ついにというか、やっとというか、とにもかくにも出ました。
拙著「なぜ水俣病は解決できないのか」(弦書房刊)発売です。

あー長かった。
本一冊出すのって大変なんだなあ、と十分に思わせてくれるこの2年間でした。
やっぱり一人でも多くの人に手にとって貰えればうれしい、なんて思ってしまいますが、実はそれどころじゃない。
一定の割合売れないと、出版社が赤字になってしまうのです。
水俣病なんて売れそうにもない本を引き受けて頂いた以上、さらなる迷惑はかけられません。
ほっとしたのもつかの間、次は営業だっ!

といっても私ができることといえば限られているのですが。
とりあえず左のサイドバー、リンクをamazonに張りました。
書名をポチッとクリックすれば、ポーッンと売り場へ行けます。

あ、amazonの表示が「在庫切れ」となっていますが、ちゃんとありますからね。
amazonの和書のコーナーではこういうことが多いらしくて、出版社の方も誤表示にならないようにと手続きして頂いたのですが、まだ改善されてないようです。
在庫はちゃんとありますのでご安心下さい(在庫喜んでどうする)。
何はともあれ何卒よろしくお願いします。

ラベル:水俣病
posted by 紅灯 at 21:15| 水俣病 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

怒濤の年末年始と水俣病研究集会

新年のご挨拶もしないうちにもう中旬、大変不義理をしてしまいましたが、当ブログ、今年もよろしくお願いします。

それにしても年末からきのうまで怒濤というか津波のような騒ぎでした。
本の校正がようやく終わり、装丁含めて私の手を離れたと思ったら特番のオンエア、そのまま大晦日まで仕事場に缶詰。大晦日の晩には抜け出して帰省してきた友人と飲んだりしちゃったんですが。
正月2日3日4日と気が抜けたようにぼんやりしていたものの(ようやく「新参者」読みました。面白かった)、気がつくと水俣病事件研究発表集会がもう目前。特措法について発表しなきゃいけないのに何もやってないとバタバタ。パワーポイントの使い方から始めたりして(だっていつも「プレゼン」はTVなので)。

8日の深夜、本業の終了後夜行に乗って熊本へ。で翌日水俣。
迎えた水俣病事件研究発表集会。用意した席が足りなくなったくらいだから、この手の学会みたいなものとしてはなかなかの盛況ぶり。時期が時期なので、マスコミも各社取材に来てる。発表によっては立命館の木野茂先生らの厳しい突っ込みもあったりしまして、報告者の私としては結構緊張しましたが、無事終了。持ち時間の20分をフルに使い切りました。

で、もう一つの目的であるところの私の本の宣伝、これが嬉しい誤算となったのであります。
印刷があがるのがぎりぎり前日になった事情で、当日印刷所から会場へ直接本が運び込まれ、私にとっても自著との初対面ははこの日です。
本を手に取り、紙の感触を味わって「やっと本になった」と思ったのもつかの間、本は私の手を離れ、会場の書籍販売コーナーへ。
段取りでは私の発表の時に宣伝する予定だったですが、ところが20冊ほどの本は発表前の休憩時間にすべて完売してしまいました。書店の方からは「もうないの?」と聞かれるし、コーディネートの先生が私の紹介の時に「本を会場で売ってます」とおっしゃって頂いたもののその時すでに売る本はなくあわてて壇上から「すみません、もうないです」と頭を下げて……という次第。
私自身も著者分が頂けるのは今週13日になっていますので、余れば会場で一冊買おうかと思ったのですが、足りない状態ですから当然お客様優先。
結局、会場には私の本を持っている人が何人もいるのに、著者自身は持ってない、見たけりゃ買って頂いた方に貸してもらわなくちゃいけないという妙な事態になってしまいました。
なので、本が完成した!という意識がいまだに希薄です。

おそらく一人でこそっと乾杯して肩の荷を下ろすのは、著者分が貰えてからということになるんでしょうね。
書店に出回るのは今週末から18日頃になるとのことでした。

それからもう一つ。
本を買って頂けるのはもう本当に嬉しいのでありまして、もう肩でも足でも揉んで差し上げたいところなのですが、「本にサインしろ」というのはどうかやめて下さいませ。恥ずかしくて恥ずかしくて汗びっしょり。本番の発表より緊張したくらいです。どうしてもということであれば、本を落とした時に備えて、後ろにご自身の名前と連絡先を私が書いてあげる、ということでどうでしょうか。



ラベル:水俣病
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2009年12月15日

予告編

ついに出てしまいました。
本……ではなく、本の予告
当たり前と言えば当たり前なのでありますが、出てみるとなんだかちょっと緊張。
いやあ、出るんだなあホントに。なんだか変な感じであります。
なぜかというと、まだ校正原稿が手元にあるから。

……。

いやあの、特にこういうことは珍しくないのであります。
たとえばTV。
「ドキュメント紅灯の日記、××日オンエア!」なんてCMが流れたって、たいていその頃はまだ番組なんてできてないのであります。試写に漕ぎつけてればまだいい方で、下手するとラッシュつないだばかりだったりする。
じゃあ予告CM(ステブレ)の映像は何かというと、適当に興味を引きそうな絵を抜き出してつないだだけ。そもそも担当編集は本編で手一杯なので、手の空いた編集マンが代わりにつないであげたりするわけです。なので本編に使われない映像とかあったりします。
でもってCMなんてそのまま忘れられてるだろと思ってると、本編終了後、偉い人がぼそっと低い声で「おい、ステブレの方が面白かったんじゃねえか」などとささやいたりすることもあるとかないとか。

まあTVと書籍の世界が同じかどうか私にはわかりませんが、予告が出ると焦るのは同じ。
それまでははっきりとは形になっていなかった責任感というものがいきなりずっしりとのしかかってくるのであります。
TVの方でも年末に特番一本抱えているのでさすがの私も気が焦る。「慌てるとろくな仕事ができない」というのが私の信条なのでありますが、やっぱり同時進行は焦る。

いろいろ立て込んでくるとちょっと気が緩むとガタガタっと崩れちゃうもので、数日前から風邪引いちゃいました。さいわい新型インフルエンザではなかったものの、ちょっと気分も落ち込みがちだったところに、予告を見て再び気合いを充填。
がんばろっと。
「予告の方が良かった」と言われないように。
posted by 紅灯 at 00:21| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月29日

リニューアル!

ごらんの通り、ブログをリニューアルしました。
って、twitter上の私のつぶやき(ツイート)を入れただけなんだけど。
そうするとこれまでのスペースでは足りないので、両袖タイプのデザインになりました。
しかし、こうなるとこのブログ、字ばっかりだなあ。あんまり見づらいようなら様子を見て元に戻そう。

なぜtwitterのつぶやきなんかを入れたかというと、理由は三つ。
一つは、ツイッターのつぶやきは、古いものからどんどん読めなくなっていくんです。つぶやいた本人も、数日もたてば何つぶやいたかなんて憶えてない。なので、せっかくブログもつけてることだし、備忘録代わりにいいかな、という訳です。

もう一つは、これが理由としては大きいんですが、twitterとはいったいどんなものなのか、関心がある人に知って貰うのにちょうどいいんじゃないかということ。
これは私自身がそうだったんですが、「twitterってどんなものだ?」と思ってアカウント取っても、最初はどうやっていくのかよくわからない。フォローもフォロワーもいないところでポツンとつぶやいてもただ寂しいだけ。大海原に一人ぼっち。堀江謙一さんですな(たとえが古過ぎ)。
なのでこれからどうなるのか、何が楽しいのかまるでわからない。他人を検索しようにも、まだそんなに広まっているわけでもないし、ブログと同じように匿名でやっている人が多いから,知り合いを探すのは結構大変。
そういう「ちょっと興味はあるけどロンリネス」という方に参考にでもなれば、ということであります。

もう一つはネット上の情報共有。
まだまだ私はtwitter初心者ですから、twitterのフォロワーよりブログの読者の方がはるかに多い。なのでちょっとした情報提供はブログの方に還元した方が効率的だなあという訳です。

ちなみに、このブログ上でのtwitterのつぶやきはリアルタイムではありません。twtr2srcというサービスを利用してHTMLに記述したモノを貼りこんでます。なので最大1日くらい遅れて反映されることもありますのでご注意ください。

リアルタイムで自動反映させる方法ってあるのかな?
その逆(このブログの更新をtwitterに自動反映)はすでに使っているんだけど。

(追記)
twitterのブログパーツを導入しました。
でもまだ改良の余地がある・・・




ラベル:twitter
posted by 紅灯 at 20:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月24日

牡蠣小屋大騒動

牡蠣小屋なるものに行ってみたかった。まず名前がいい。牡蠣で小屋である。やっぱりオイスターでバーより、牡蠣で小屋だ(なんだか意味不明だけど)。
海産物というのは鮮度が重視されるが、中でも牡蠣は別格。そういえば「美味しんぼ」の山岡士郎は暴走族のバイクに二人乗りして牡蠣を運んだんだっけ。
なので牡蠣は海で食べるのがいちばんらしい。だから牡蠣小屋。大変わかりやすい。

というわけで行ってきました。福岡は糸島半島、岐志漁港の牡蠣小屋。糸島半島の牡蠣小屋は岐志漁港以外にもあるのだけれど、ここがいちばん数が多い。10軒近くの「小屋」があるそう。この日は小雨混じりの肌寒い日とはいえ、連休中である。相当の混雑が予想される。となれば数が沢山あるところの方が平均すれば混まないのではないかという判断である。
が、甘かった。
漁港に着くと車、車、車。数え切れないくらいの車が埋め尽くしている。その向こうに立ち並ぶビニールハウスが目指す牡蠣小屋。その後ろは海の筈なのだが見えない。とにかく車の向こうにビニールハウス。そこから延びる人々の列。とてもシュールな光景である。

とりあえず並ぶ。何の予備知識もなく並んだのだが、店によってファンが付いているようで、「あ、ここ」「ここだここだ」などといいながら並ぶ人が多い。見かけは同じビニールハウスなのだが、牡蠣の値段や、炭火かガスかや、サイドメニューなどによってかなり個性があるらしい。
並ぶのは苦手なのだが、なにしろ海である。漁港である。ここまできて並ばなければほかに何にもしようがないのであった。

ちょうど1時間で中に入れた。ハウスの中はもうもうと焼ガキの匂い。ハウスの中央に通路が一本通っていて、両脇にベンチ。炭コンロがずらりと並んでいる。これが焼き肉なら、1時間も待って炭火の前に案内されればもっとギラギラした雰囲気になりそうだけれど、そういう雰囲気ではない。なんとなく落ち着いている。炭火なのにどこか枯れた感じが漂ってる。
新しい炭を運んできた店員さんが「何キロにしますか?」。いきなり「何キロ」という食べ物屋もなかなかない。
時期的なものなのか、やや小ぶりの牡蠣で、1キロ10数個見当。5,6個網の上にのっけて待つ。とりあえず待つ。ビールを飲んで待つしかない。
ヒマである。
ハマグリとかならすぐに口を開けそうな気もするし、なにより愛嬌があるが、なにしろ牡蠣だ。岩を網の上にのっけってるみたいで愛想もこそもない。どうにもヒマなのである。

なので「きょう入荷」の手書きの張り紙に書いてあったワタリガニも頼む。「カニも食うか」程度のほんの気まぐれだったのだ。それがまさか・・・。

運ばれてきたワタリガニは3匹。輪ゴムで手足をぐるぐる巻きにされている。ではさっそくとゴムを外した瞬間だった。
「わああ、生きてる」
いきなり私の指めがけてハサミを振り下ろしてきたのだ。「危ない!」と後ろから店員さんの声。カニを放り出し、慌てて両手に軍手を嵌める私。ものすごい勢いでテーブルから逃げだそうとしているカニをトングでつかみ、裏返して網の上へ。これで大丈夫だろうと思ったのもつかの間、「おおお、ブリッジしやがった」。ワタリガニが手足をいっぱいに広げ、ハサミで網をつかんでこれでもかとばかりにブリッジしているのだ。「こ、こいつめ」おびえながらトングで網に押しつける私。「早く焼けちまえ」。気分は殆ど猟奇殺人者である。

すっかりカニに気をとられている間に牡蠣が焼けている。「お、焼けた焼けた」と軍手を嵌めた手で牡蠣をつかんだ瞬間、「わっちゃっちゃっちゃ!!」牡蠣の口の隙間から猛烈に熱い蒸気が噴出していたのであった。
「わあああ」とわめきながら今度は牡蠣を網の上に放り投げる私。四十男は牡蠣小屋ですっかり落ち着きをなくしたのであった。

肝心の牡蠣の味はというと、これはもう、うまいの一言。あんまり芸が無くてもうしわけないが、とにかくうまい。私実は街で食べるときは牡蠣の好き嫌いが結構あって、信頼のおける店でしか食べない。牡蠣独特の潮臭さが「美味しく」感じられるものと「臭く」感じられるものがあるからだ。前も書いたけれど、家で食べるときは大根おろしで徹底的に洗う。
でも牡蠣小屋の焼ガキはまったく厭な臭いがなかった。「牡蠣独特の」と思っていたあの磯臭さはもともと牡蠣にあるものではないようだ。
「美味しんぼ」じゃないけれど、牡蠣は水揚げしたら一秒でも早く食べるべき、というのは間違いなさそう。
牡蠣を食べるなら牡蠣小屋で。これはやはり正しいみたい。
また行こう。できれば平日に。

posted by 紅灯 at 21:49| 酒・料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月21日

ごぼ天うどん

お昼はごぼ天うどん。正しくは「ごぼう天うどん」だが、「ごぼ天」と発音するのがネイティブ。
これを食べると「福岡に帰ったなあ」という気がする。
観光客なら「とんこつラーメン」とか「もつ鍋」とか「水炊き」とかで福岡を感じるのかもしれないけれど、生まれ育った人間としては「ごぼ天うどん」である。

九州を離れるまで、まさか他の地方ではごぼ天うどんがないなんて想像もつかなかった。関東では肉うどんすらないところが少なくない。
肉うどんは関西では一般的だけど、福岡でごぼ天と肉うどんがないうどん屋(そば屋ではない)なんてまず想像できない。
ちなみに福岡では「天ぷらうどん」といえば通常「丸天」である。「丸天」というのは要するにさつま揚げのでっかくて丸いものを想像して頂きたい。あれがどんと載っているのが「天ぷらうどん」。
では、ごぼ天うどんはおでん種のごぼ天かというとこれが違う。こちらはごぼうを天ぷらにしたものが入っている。こうやって書いているとなんだかややこしくて他の地域の方に申し訳ない気になってくる。

しかしこのごぼ天うどんがうまいんだな。
店によって違いはあるけど、大抵はごぼうをきんぴら風ではなく、繊維に沿って薄く長さ5,6センチくらいにスライスしたものをてんぷらにする。
これをうどんに入れると、最初のうちはパリッと揚がっているのでシャクシャクの食感が実に香ばしい。食べ進めて行くにつれてごぼうの野趣あふれる香りと衣のアブラがつゆにまみれていく。よくダシの利いた九州風の薄口のつゆがしたたる天ぷらの衣、衣は柔らかくなってもパキパキした歯ごたえを失わないごぼうが噛みしめるたびに味を染み出す。そこで噛み疲れた歯をいたわるようにうどんがにょろん。すべての旨味がもう口中で渾然一体。
さらにここに肉を投入する「ごぼ天肉うどん」の場合、甘辛い肉汁の参加によってもう天国のレベルにまで幸福感が増すのだ。

なんで福岡にしかないんだろ(九州北部では割とあるけどね)。


posted by 紅灯 at 21:03| 酒・料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月19日

Bar「つぶやき」その後

twitterを始めて2週間、慣れてきてクライアントなど導入したりしています。
最初はフォローする相手をどうやって探すんだ?なんて思っていたけれど、関心のある人を見つけてフォローするとフォローをかえされたり、フォローしてくれた人をフォローしている人がフォローしてくれたりと(ややこしい文章だな)、少しずつ増えている状況。

大変におもしろい出会いもありました。
共通のテーマからある方を見つけてフォローしたらすぐにフォローを返され、「なるほど、私の方にも関心があるのかな」などと思っていたら、すぐにダイレクトメッセージ。実はこの方、このブログを前から読んでいらっしゃって、コメントを入れようと思ったこともあったそうなんです。ただこのブログ、途中でコメント欄をやめちゃったので(認可制にしていたんですがそれすら理解できない方もいるようなので)、連絡を取れずにいたところ、突然私からフォローが来たというわけ。ネットの世界も広いようで狭い。

もう一つ、某著名なブロガーの方がいらっしゃって私もずいぶん昔から読んでいまして、twitterもフォローしました。有名人の場合、twitterではフォロワーの方が圧倒的に多いのは当然です。ところがしばらくするとこの方からフォローが。これはなんとなくうれしい。ファンレターを出したら返事が来たような感覚ですね。

こういう経験を通してつくづく思っているのは、このtwitterというのは実は相当に斬新なコミュニケーションの世界を切り開くものなのではないかということ。一般的にtwitterは「何のことはないつぶやきを投稿するゆるいツール」と受け止められていますが(私も半月前までそうだった)、意外とこれまでにない人とのつながり方を生みつつある気がします。

twitterでのつながりは基本的には「他人」です。その気になればtwitter上のすべての人のつぶやきを聞くこともできるわけで(実際にはムリだけどさ)、フォローしているだけでは完璧に他人です。これがフォローしあうようになると少々変わってくる。もちろん「他人」という前提は変わらないんだけど、どこか「知り合い感」「連帯感」のようなものが生まれてくる。RTなどを繰り返していれば、リアルで会っても違和感なく話せるかもしれない。

しかしネットではこの「知り合い感」という距離感がしばしば問題になることがあって、ブログのコメント欄や掲示板とかが荒れたり炎上したりするのも一つにはこの距離感の一方的な思い込みがあるのではないかと思っています。
ところがtwitterの場合、「知らない人たちとなんだかつながってる」という感覚が強い。掲示板などとは違って「あなたにこれを言いたい。私の言いたいことを聞きなさい」という主張が(コミュニケーションの中では)少ない。

さらにtwitterでは、特に私達くらいの年代だと、いろんな人がいろんな日常を送りいろんな活動にエネルギーをそそいでいるんだなあという当たり前のことが非常に新鮮に感じられるんです。普段接点のない人たちの日常と微かに触れあうことで、マスコミなんかが当たり前のように扱っている「大衆の群れ」という均質化されたイメージが、実は幻想に過ぎないことが実感としてわかる気がするんですね。

先日、一念発起してダンスパフォーマンスに挑戦した、普段は堅い仕事をしている40代の方が「個性は自分の中にあると思っていたけれど、人との関わりの中で見えてくるものだと初めて知った」と話していたのが印象に残ったのですが、まさにtwitterも「つぶやきの関係性の中から個性が見えてくる」気がします。
posted by 紅灯 at 22:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

カッコいい大人たち

熊本でドキュメンタリー映画の上映会があって日帰りで行ってきた。実を言うと今帰ってきたところ。
私も初夏に取材して、番組にしたイベントなのだけれど、55分の映画になるとまた別格の味わい。というか、撮影・監督が榎田信衛門さんというウェブラジオ&TVの大御所なので当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
そのテーマは「クマモト・バーテンダーズチョイス」という熊本でしか飲めないウィスキー。一匹狼のバーテンダーが手に手をとって熊本オンリーのウイスキーを販売するまでの記録という面白くないわけがない話。企画から販売まですべてが手作りで、本日の上映会も手作り。おまけに入場無料。
そっかそっかそりゃいいやと思っていたら、「お前、前座で何か喋りなさい」と呼ばれたわけです。

無料のイベントほど難しいものはなくて、なにより人の入りがわからない。
私なんぞ「人が少なきゃ喋るほうは気楽でいいや」なんて罰当たりなことを思っていたわけですが(思ってません)、別にボランティアでイベントやってるわけじゃないですからね。企画する方は大変です。
でも幕が上がるときには満席。本当に頭が下がりました。

仕掛け人は熊本のバー・コロンこの人。行動力・企画力も図抜けてるけど、何より新しいものに挑戦するエネルギーが並じゃない。
もう亡くなって20年以上経つけれどその存在は薄れない希有なジャーナリスト・千葉敦子さんは「スランプに陥るのは、簡単な仕事ばかり受けているときだ」と看破したけど、40を過ぎると本当にこの言葉の意味がわかってくる。
上映会が終わって打ち上げで、疲労困憊なのにとてもいい顔をしていたマスタード★鶴田さん。そして信衛門さん。あなた方格好良すぎ。
刺激にあふれた一日でした。
posted by 紅灯 at 01:30| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月08日

Bar「つぶやき」

今更ながらツイッターを始めてみました。
忙しくなるといろんなことに手を出したがると言う悪いクセであります。
このツイッター、以前にも誘われたことがあるんだけど、その時は「そんなつぶやきなんて何が面白いの?」という感じで流していたんですね。その気持は今回も変わっていなかったんですが、ただこの間に結構ツイッターが広がりを見せてる感じはあって気にはなっていたんです。さとなおさんが鳩山首相と会食してツイッター勧めてみたりとか。

で、原稿書きの息抜きに(というか逃避に)ツイッターに登録してみました。この手のものとしてはあんまり直感的でないのと、言葉が直訳体で少々読みづらいので、最初は少々抵抗はあったんですが、基本的なところは慣れました。
確かにつぶやきはつぶやきなんだけど、人によってずいぶん使い方が違うんだなあ、というのが今のところの印象。ビジネスやポリティカルな活動に精力的に使ってる人もいるし、のんびりたんたんとつぶやいてる人もいる。私なんかはまだよく勝手がわからないのでおとなしく後者ですが。

ただ、共通して言えるのは、意外と独り言って面白いんだなあと。いや、厳密には人に聞かせることを前提としている独り言なんだけどね。ブログが人に見せることを前提とした日記なら、こちらは人に聞かせる独り言。そこに他人から返信めいたものも入ったりするんだけど、それはそれでぼやきと相づちみたい。

なんか似たような状況知ってるなあと考えたら、あれです。
バーのカウンター。
激しく自己アピールしている人もいるかと思えば、ぽつねんと呑んでる人もいる。時々マスターが合いの手入れたりなんかしたりして。常連さん同士で話し込んでるかと思えば見ず知らずの人と話し始めたり。何話したか翌日には忘れてたりもするんだけど、かと思えば結構後まで尾を引いたりもする。
あの独特でルーズで魅力的な対人関係空間がネットの世界に再現されつつあるのかななどと思う初心者でした。

あ、koutouwinterという名前で登録してます。フォローは歓迎です(必ずフォローし返すかどうかはわかりません。すみませんルーズなもので)。



posted by 紅灯 at 20:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月07日

レモン!

最近なんだかハイボールが流行っているそうで、あっちでもこっちでもハイボール。
昔からのハイボール好きとしては大変喜ばしいこと何ですが、どうも変。

ハイボールブームはいいんだけど、この前焼肉屋さんにいって「ハイボールあります」の張り紙が。
「ほうほうこんなこところにもハイボールが」と頼んだら、これがこれが。
……これはレモンチューハイととこが違うんだね。
と言いたいとこなんだけど、一応ウイスキーっぽい香りもしないことはない(それがまたマイナスなんだけどさ)。
でもその分さらにレモン味を効かせてあって、酸っぱいことこの上なし。
これがハイボールだって思われたくないという反面、焼酎ブームも(一応)酎ハイブームで裾野を広げたしなあ…などと仕掛け人のサントリーを思いやるのでした。

で、そのレモンですよ。
基本的にはハイボールってレモンなくてもいいんですよ。本当においしければね。でもおいしいハイボールは最後にレモンを振る。
ここのとか、ここのとか、そらもう絶品であります。
でもね、それはウイスキーにソーダ放り込んでレモン搾ればいいってもんじゃないのでして、最初に「うわーレモンだ」なんてのはハイボールでも何でもないと。

じゃレモンはどうでもいいかというととんでもない。
本当にレモンてのはピンキリでして。
うちの近くのスーパーは南アフリカ産のレモンしか置いてなくて、ちゃんと「防かび剤使ってます」とか書いてるのはいいんだけど香りも何もない。
これがですね、長崎産でも香川産でもいいんだけど、ちょっと高いレモンを使ってごらんなさい。ほんの一滴ですーっと鼻に抜けるようないい香り。バーテンダーさんたちの技術はなくても、そこそこのハイボールは楽しめますよ。確かに高いけど、でもほんのちょっとですむからね。トータルではお得。ていうか、同じレモンとは思えないから。

このハイボールブーム、自宅で楽しむならレモンにちょっと気を配るだけで秋の夜長、ずいぶん変わりますよ。

posted by 紅灯 at 00:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月02日

売り上げに影響するのだろうか

中島みゆきさんが紫綬褒章って、驚きました。
ファンとしてはめでたいことなんだけど、「おいおいもうそんな歳?」って感じです。
そう思って受章者一覧見ると意外と四〇代なんかもいて、今時の褒章は=年寄りというわけでもないようであります。
それにしてもなあ。なんだかイメージが湧かない。本人は相変わらず人を食ったようなコメントを出してますが、ご自分でも面食らってるのではないかしら。

久石譲の方はまだなんとなくわかる気がする。するけれど、こちらの方も意外といえば意外。私、ピアノのレパートリーの三分の一は久石譲っていうくらい好きだし、高く評価されていい人だとは思うんだけど、そんなに活躍の幅が広いとは言えない気もする。基本的に宮崎駿と北野武だもんね。
久石譲が授章するなら加古隆とかだって……と思うのは私だけではないはず。

ま、褒章叙勲の基準なんてあってないようなものとは昔から言われてることなので、今更考えても仕方ないし、ファンとしては素直に喜ぶべきなんでしょうな。

そう言えば、さ来週、中島みゆきのニューアルバムの発売なんだけど、まさかプロモーションの一環じゃ、なんてね。

「褒章受章第一弾アルバム!」なんて帯が付かないかな。
posted by 紅灯 at 18:56| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月01日

おいおい、いいのか

出版の校正作業と追加原稿の執筆が追い込みに入ってるところに、本業の方もけっこうドタバタしたりと、なんだかやたら忙しい。本も読めない、映画も観れないと欲求不満が募ることおびただしい今日この頃。ストレスがたまると買い物で解消しがちという悪癖を持つ私は、観る時間もないくせにDVD情報などをチェックしておりました。

そしたらビックリ。
「刑事コロンボ」のDVDボックスが今月再発になるじゃないですか。再発自体は前も1回あったので驚かないけど、驚いたのはその価格。5枚組1セットで定価4980円。amazonなら3686円。で、4セットで旧シリーズ全巻揃う。全部揃えても1万5000円しない。
だって、去年出たコンプリートボックス2万6500円だよ。んでこれ、完全限定生産という触れ込みで完売したらしくて、ネットなんかじゃ4万〜10万以上で売ってたんだよ。安く出るのはいいんだけど、前に買っちゃった人怒ってないかな。プレミア見込んで沢山買っちゃった業者とかどうするんだろ。

んで、「コロンボ」がユニバーサルなので「ひょっとしたら」と思ってみたら、やっぱりあった。
「大草原の小さな家」シリーズ。こちらもユニバーサルで、シーズン1から8までが一昨年から今年8月まで続々出てました。そのときは1シーズン8枚組で1万7800円。長らくDVD化されなかったこともあって結構売れたみたい。シーズン1なんてすぐにプレミアついてたし。僕も欲しいと思ったんだけど、TVを同録したのがビデオでほぼ全巻残っているので(場所とるんだこれが)思案していたとこだったんです。
それがあなた、シーズン6までがやっぱり今月新価格で再発。それぞれ定価4980円(amazon3686円)。
シーズン6まで去年買った人は計10万6800円(!)。今月買えば2万2000円。
8枚組で3600円って、一枚400円ちょっとの勘定ですぜ。

いやー、これ怒るって。廉価版の再発はファンにはありがたいものだけど(私なんぞ早速買おうと思ってたりする)、これはちょっとね。ユニバーサルに何があったのか。在庫一掃しなきゃいけないのかな?

posted by 紅灯 at 12:54| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月06日

ワイヤレス独身暮らし

歓迎会だなんだとあわただしく過ぎて週末。
ようやく部屋も落ち着いた。
以前のスラムのような(いや自宅マンションとは別のね)部屋とは違い、快適である。広いし。
部屋の片隅にエレアコなんぞ立てかけてあるとなんだか学生時代みたいだし。

ただ学生時代はステレオだの何だの配線が大変だった。
その後だってPCやらプリンタだのいわゆるスパゲティ状態。
でも今回はないのである。

NTTの人に「LANはどこに開線します?」と聞かれて(部屋にいくつかポイントがある)
「ベッドの下にお願いします」。
「いいんですか?」
「はい」
というわけで、じゃまなモデムのたぐいは見えないところ。
んでもって、見えないとこの電源にAirMac Expressをぐさり。
それにLANケーブルを差し込んで、プリンタのUSbもスピーカーのステレオプラグもぐさり。

そこから数メートル離れたリビングにmacがぽつん。

なのに。
macのitunesにリモコンでplayしてやるとワイヤレスでスピーカーから音楽がなるのさ。
そのmacまでの距離は、さらに座ってるところから1メートルくらいあるけど、マウスもキーボードもワイヤレスなのさっ。
imacはディスプレイと本体が一体だから見た目液晶テレビがあるのとなんのかわりもございません。
プリンタもじゃまにならないところに鎮座ましましてるし。

すごいよね、これ。引っ越しの後だから余計に快適に感じるのかな。
macから伸びてるケーブルって電源ただ一本だけ。あと何にもなし。

ワイヤレスキーボード1000円で売ってくれたHさん、ありがと!

独り身の夜は親切が思い出されます。

posted by 紅灯 at 23:37| win→mac | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月27日

送別会

昨夜は送別会だった。
といっても少しばかり変わった送別会。
私を除いた全員がK社という私とは違う企業の先輩方なのだった。

K社というのは同業他社でライバルである。いつも「やられたああ」などと頭を抱えたりしているところである。
そこの人たちに囲まれて、「それでは紅灯さんに贈る言葉!!」などとやってれば、誰が見たって私はK社の社員であるはずなのだがそれが違うという少し妙な光景。
集まった方々も「何か妙だよな、これって」などと言いつつ、「まあいいじゃない、あはは」とグラスをぶつけてくる。

みんな先輩だし、私が新人の昔々から知っているよという方も少なくない。おまけにこの選挙直前の忙しい時期なのに、開始時間ちょうどに私が到着した時には全員顔を揃えていらっしゃる。普段失礼な口を聞いている私も、だんだん頭が上がらなくなってくる。

そのうち私へのはなむけを一言ずつ、となった。
「彼はね、とにかく生意気だった」
「鼻っ柱強くてね、頼ろうとしない」
どんどん頭が上がらなくなってくる。
「でもね、彼、新人の時、こんな仕事してたんだよ。こんなとこに目を付けるの、俺だけだと思ってたから驚いてね」
「別の仕事の時はね、彼は……」

いくつもいくつも、皆さんの口からこぼれ出てくる話は、私にはすっかり忘れていたことだった。すっかり忘れていたことが次々に目の前に浮かび上がってきた。20代の僕や30代の私がグラスの向こうに顔を出す。

そして2次会。カラオケスナック。
旅立ちの歌が次々にかかり、ステージの上から「がんばれよ!」と手を振る先輩たち。
私はあの笑顔に答えられる人生を重ねてきただろうか。
そんなことをつい考えてしまい、なんだかうまく言葉が出てこなくなった。

最後の曲になった。「あこがれのハワイ航路」。
全員で輪になって肩を組み、フラダンスのように足を上げて踊る。
K社伝統の送別の儀式だそうだ。
両脇をがっしりと抱えられて足を上げ、腹から声を出して歌った。

みなさん、ありがとう。
別れた後、少し足が震えていました。



posted by 紅灯 at 22:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする